プロフィール

軽石へちま

Author:軽石へちま
基本自キャラで凄まじく妄想してみる。
隠れ家なのでBLとか黒とか暗とか主。
キャラ崩壊必至。何とも思わないけども。
妄想についてこれる人だけどうぞ。

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--.--.--(--) | スポンサー広告 |

空火照り  探偵①
 その日、その時間に流風が職場である薬局の外にいたのは、全くもって本当にただの偶然だった。そろそろ暑くなり始める五月半ば、月曜日、時刻は午後1時を回っている。いつも通りなら、自宅アパートから職場に着いて、休憩室でのんびりカップラーメンを啜っている頃合いだが、その日に限っては勝手が違ったのだ。そのため、自慢の端正な顔立ちは今や『悪役堕ち』と形容していいほど歪んでいる。特売日に近所のドラッグストアでまとめて買い込むにんにく醤油のカップ麺。今日の昼食となるはずだったそれは、流風の知らないうちに、彼の双子の姉によって消化されてしまったらしい。大股で交差点を歩きながら、ぶつぶつと呟くのは姉である陸への呪詛の言葉だ。食い物の恨みはおそろしいのだ。
 平日の昼間とはいえ、日本の中心のそのまたど真ん中にある新宿は、人の流れが絶えることはない。こちらへ来てからもう数年、人波でぶつからないよう歩くことには慣れたけれど、この人の多さにはやはり閉口する。

「水城……? 水城だろお前!」

 変わらず呪詛を吐きながら横断歩道を渡り切ると、目の前でそう声をかけられた。いかにも自分は水城 流風という。しかし経験上、そう声をかけてくる輩にろくな奴はいなかった。流風の姉である陸もまた当然だが水城姓であり、悲しいことに顔もそっくり、職業はそこそこ売れてるモデル兼歌手、しかも本名で活動中。流風自身、自分が男としては華奢な部類に入ることは理解しているが、だからといって女と間違えられるほど小柄だと思ったことはない。触ってもらえれば十分筋肉質であることはわかってもらえるはずなのだ、触らせたくなどないが。なので、苗字だけで呼んでくる輩には反応しないようにしている。どうせ陸のファンかストーカーか何かだろう。目的地へと急ぐため、するりと脇を通り抜けようとしたが、相手は怯まず流風の肩を遠慮なしに掴んできた。

「無視すんなって! 水城 流風だろ? 俺、高校の同級生だった林沢! 覚えてねえかな」

 そう声をかけられては顔を上げざるを得ない。視界に入れた相手はなるほど確かに今は疎遠だが高校の頃そこそこ仲の良かった覚えのある青年だった。記憶力には割合自信のある方なので、それは間違いないだろう。
 しかし、高校時代の同級生が、なぜ、こんなところに、この日、この時、この場所で自分と出会うことになるのか、さっぱり見当がつかず首を傾げた流風を見て、林沢と名乗る青年は苦笑した。

「そりゃあそうだよな、驚くよな。俺も驚いたし。あ、なんなら飯でもどうだ? ちょうど昼飯にしようと思ってたところなんだ」

 話はそっちで、と持ち掛けた青年に流風は頷いた。じゃあこっちに、と先頭切って流風が歩き出すと、相手もそれに続く。

「それで、何食いに行くつもりだ?」

 相手はあまり新宿に慣れていないのか、期待に満ちた表情で流風に問いかける。ちらりとその楽しそうな横顔を一瞥して、「二郎だけど」と短く答えれば、少し後ろをついて来ていたはずの足音が止まるのがわかった。仕方なく流風も足を止める。

「……俺、顧客がいる仕事だからさ、ニンニクはちょっと……。パスタとかにしねえ?」

 女子大生かOLか、と突っ込もうと思った流風と青年の間を、道を急ぐ営業マンが通り抜けていった。





 あまり声を大きくして話すことは少ないが、流風も姉の陸も、実は生まれと育ちが岐阜県である。高校卒業までは二人とも岐阜で過ごしていた――姉の陸は東京旅行でスカウトされてからというもの、新幹線で往復する生活をしていたが。進学を機に流風も陸も上京したが、まさかこんな新宿の雑踏で岐阜の同級生に会うなんて思っていなかった。上京自体は珍しいことではないし、都内にいる以上ゼロでない確率ではあるだろうが、それでも稀有なことだろう。それはそれで分かっているが、今流風が大変難しい表情をしているのは、運命のいたずらによるものではない。もっと即物的なものだ。
(……納得いかん)

 繰り返す。流風が眉を顰めているのは、偶然の再会によるものではない。目の前のテーブルに載るパスタが原因である。
 方やナポリタン、方やペペロンチーノ。ナポリタンが流風の、ペペロンチーノが林沢の注文した品だ。

(ニンニクはちょっと、とか言って二郎蹴っといてペペロンチーノはひでえ裏切りだ)

 それほど、本日の流風のガーリックに対する思いは強いものがあった。出不精の自分がこうしてたまには外で食べるかと外出したのも何かの縁、姉にカップ麺を食われてしまったのも、何かの思し召しに違いないと思った。しかしこれでは話が違う。ペペロンチーノならオシャレで良くて、二郎じゃダメって理屈がわからない。モデルである姉とよく似た整った顔で不機嫌を露わにする流風に、気圧されたように林沢は「な、なんか、ごめんな」と声をかけた。
 ゆで上がったばかりで湯気を立てるパスタに二人揃ってフォークを入れながら、他愛もない近況報告が始まる。

「俺さ、地元大学に一回は行ったけど、東京出たくなっちゃってさ。東京のそこそこ名がある大学に行こうと思って中退して、でも勉強ろくにしてなかったから1浪してさ。それでこっちの大学入って、この前卒業したばっか」
「割と波乱万丈じゃん」
「今じゃこんな馬鹿な選択する奴なんていねえよな。最初からよく調べとくんだった」

 たははと笑う林沢の表情を見ながら、ナポリタンを口に運ぶ。まあ、悪くない。当初のガーリック成分とは遠いけれど、舌が子供な自覚はある。味の濃いものは大概好きだ。
 林沢は続けて名刺を一枚取り出すと、自身の近況を語った。それなりに名の知れた私立大学の法学部に入ったこと。法曹を目指したいと思い、在学中から探偵社でアルバイトをしていたこと。ロースクールに通うには資金面で難が多いことから、予備試験からの合格を狙って、バイトとして世話になっていた探偵社――業界としては大手といわれるところに就職したこと。それがこの春のことだという。つい先月の話だ。

「ふうん、じゃあ新米探偵ってことか」
「そーゆーこと!」
「うちの近所にもいるよ、探偵。どー見てもヤクザかマフィアって感じだけどさ。なんでも屋みたいな」

 探偵と聞けば自然と脳裏を過ぎるのが歌舞伎町の探偵事務所だ。実務としては二人で切り盛りする、その殺伐とした“探偵”のイメージしかない流風にとっては、目の前の同級生の職業だというホワイトでクリーンなイメージのある“探偵”はなんとなく馴染まない。
 かたやアメリカ出身の元警察官、見た目はマフィア。かたや日本出身の元警察官、見た目はヤクザ。下手に事務所に足を踏み入れたら指を詰められるのではないか、法外な価格でクスリを買うように言われるのではないか、気絶させられてマグロ漁船か蟹工船に乗せられるのではないか――そういった馬鹿馬鹿しく微笑ましい妄想が、春の歌舞伎町には付き物だ。歌舞伎町では何かと顔の利く探偵二人は、夢を求めて上京し金のためにこの街で働き始めた若者にはひどく異様に見えるのだ。気持ちはわからないでもない。事実、そんな相談を小さなキャバクラのボーイから寄せられたことがある。あまりに面白かったのでその場は神妙な表情で相談に乗り、後で本人たちに告げ口したのは秘密だ。

「へー。ドラマみたいじゃん。最近はうちみたいな企業らしい探偵企業が増えてっからさ、憧れるよ、そういう町の何でも屋みたいなのさ」
「今度紹介してやるよ。所長は外人で気難しそうなんだけどさ、もう片方頭悪いのがいるから。いっつもうちの薬局の裏手で猫追っかけて仕事サボってる」

 その所長でない方、日本人の桜井 拓海という男は、なんとも見てくれとちぐはぐなことをすることが最近多い。
 愛用する木刀を肩にかける図面ケースに入れ、調査が終了したのかなんなのか、余った時間なのか知らないが、薬局の裏手にある猫のたまり場でじっと猫を観察しているのだ。正直、気色悪い。
 林沢もその光景を想像したのか、首を傾げている。

「なんだそりゃ」
「でも元警官でさ、剣道の腕前はピカイチらしい。見たことないから本当かどうか知らないけど」
「はー、やっぱ新宿ってヘンテコな人多いんだなあ。来週の土曜とかさ、その人いねえの? ちらっと顔見れるだけでいい」
「出勤かどうかは知らねえけど、いつも暇そうだから引っ張ってくるくらいはできる。俺は休みだけど、部屋は近いし」
「マジか。俺多分出勤なんだけどさ、これくらいの時間なら昼飯だし、寄れると思うんだよな」
 
 流風も自分のスケジュールを思い返した。おそらく問題はないだろう。夜8時から店を開けられれば、それまではどうにでもなる。いいよどうにかする、と頷くと、林沢は嬉しそうに「じゃあLINEの連絡先交換しとこう」とスマートフォンを取り出した。

「そういやお前は? こっちの大学来たのは知ってたけどさ、薬局ってことは薬学部行ったんだよな」
「そう。一応世話になってる医者のクリニックみたいなとこ間借りして薬局やってる」
「うわ、自分の店か。じゃあ俺も今度何かあったらお前んとこ行こうかな」
「無理だろ多分。歌舞伎町だし、開店夜8時だし」

 連絡先を好感し終えるとスマートフォンをポケットにしまい、食事を再開する。熱さに弱い舌を守るため、念入りにパスタに息を吹きかけて冷ます。ケチャップソースのたっぷりかかったパスタをまた頬張って咀嚼している間も、林沢はきょとんとした顔をしていた。
 なにも、驚かせることを言ったつもりはない。岐阜にいた頃少し世話になった姉弟を頼って上京したら、気が付いたら薬局を開いていた。学生時代にはこの街に世話になった部分も多分にあるし、少しでも夜の街で働く人の手伝いになればと思ったのだ。姉の陸はそんなに賢い方ではなかったので、外見や性格を活かせるあの仕事に就いたのはよかったと思っている。
 薬局の開店は午後8時、閉店するのは日付を跨いだ午前9時だ。酔っ払いから外国人、事情が言えないような若者が来たりと毎日いろいろあるが、今のところ平和な日々を過ごせていると思う。能力に見合った毎日だ。

「へー、自立してんなあ」
「そうでもねえよ。場所だって間借りしてんだから」
「この年でそれだけできりゃ上出来だろ。ここ岐阜じゃねえんだしさ。日本の中心、新宿だぜ?」
「おだててもロキソニンくらいしか出ねえよ」
「ロキソニンかー。ボルタレンのがありがたいな」
「お前なあ……。……まあ、あるけど」
「あんのかよ」

 いつ何があるかわからないので、一応鎮痛剤代わりとしてボルタレンは4錠程度持ち歩いている。他人への譲渡は本来褒められるものではないが、大した量でもない。
 ズボンの後ろポケットに突っ込んだ二つ折りの皮財布を開けると、錠剤を取り出し、林沢の掌に載せる。

「さんきゅ。あって損するモンじゃねえからな。もらっとく。あとついでにさ」

 ペペロンチーノを食べる手を途中で止め、受け取った錠剤を林沢もまた財布に仕舞い、代わりに一枚の写真をテーブルに載せた。合わせて流風も視線を落とす。ひとりの女性の写真だった。セミロングの黒髪に、大きな瞳が印象的な、かなり可愛い部類に入る女性だ。年齢は、流風や林沢と同じくらいだろうか。流風の知り合いの中に、この女性はいない。
 
「さすが探偵。人探しか」
「そう。もしこの人見かけたら連絡くれよな」
「家出か?」
「さあ、わかんねえんだ。ただでさえ最近物騒だろ、行方不明頻発しててさ」

 そう言われればそうだ。最近テレビのニュースを賑わす言葉と言ったら「多くの人が行方不明」「一か月ほど経ったのち、手足全てが切断された状態で見つかる」「生きている場合もあれば、死んでいる場合もあるが、生還しても精神異常の状態である」などと、あまり現実味を感じない、けれど字面だけはおどろおどろしいものばかりだ。自分とは縁遠い話だと思っていたが、探偵はこんな人探しもしているのか。

「事件に巻き込まれてるかもしれないって思って、1カ月以内に探し出してくれ、って家族が駆け込んでくるんだよな。うちの所員もほとんどが似たような案件抱えてる。こんな新米投入すんだから忙しさも推して知るべしってな」
「そりゃあ、結末が物騒だからな。家族も気が気じゃないだろうし、お前もあんま首突っ込むと危ないんじゃないのか」
「俺はまあ仕事だからさ、ある程度は仕方ねえかなって。危険だと思ったら引くように会社から指示が出てるし、見つかることなんてまずないんだよな、皮肉だけど」
「会社も従業員むざむざ殺されるわけにいかないからな。当たり前だろ、そんなの」

 そういうもんかなあ、と照れたように言う林沢に、当たり前だ、と流風はもう一度強く頷いた。
 その後は他愛もない話をしばらく続け、小一時間話したところで林沢の電話が鳴った。「やっべ、定時連絡忘れてた!」という林沢は千円札をテーブルに置くと、慌ただしく席を立った。

「じゃあな流風! 土曜のこと忘れんなよ! 昼頃連絡すっから!」

 はいはい、という意味合いを込めてひらひらと掌を振り返す。予定外ではあったが、なんとなくむずがゆいような懐かしさを得られた。悪い気はしない昼食だった。



「それで。何で俺がお前の同窓会に付き合わなきゃならねえんだ」
「休みだろ。いいじゃん」
「よくねえ」
「でも来てんじゃん。ケレスさんってやっぱ怒ると怖いんだ」
「怖いとかそういうんじゃねえよ」
「いや怖いから来たんだろ、休みなのに」
「お前は給料差し止めの恐ろしさを知らねえから言えるんだ」
「そんなコスモを感じたことがあるかみたいに言われても。つーかやっぱ怖いんじゃん」

 給料差し止めとは末恐ろしい。それよりも、そこに至る何をこの熊じみた男はしでかしたのだろうか。
 現在土曜日、午後1時を回ったところだ。薬局は定休日である。金曜の夜は大繁盛する歌舞伎町だが、やはり土日は社会人の大半が休みのためか、普段ほど人通りは多くない。そのため、流風が切り盛りする薬局も人の流れに沿って定休日を決めた。つまり、土日が休みだ。
 流風の目の前にいる男は、桜井 拓海。件の猫ストーカー探偵だ。いつものように肩からは図面ケースを携えている。中には愛用の木刀が入っているのだろう。
 呼び出し方は至極簡単だった。歌舞伎町のよく顔の利く面々の電話番号は一通りスマートフォンに入っている流風は、もちろん探偵事務所の所長とその使いっぱしりの番号も知り得ている。拓海宛に電話をしたのは昨日の開店前。『就業中に猫のストーキングをしていることを所長に知られたくなくば、明日正午に薬局まで来い』と告げれば、重々しい声で『……何が望みだ』と返ってきたことには、今思い出しても腹が捩れる。

「まあ、すぐ連絡来ると思うしもうちょい待てよ。終わったら解放するから」
「会っても面白いことなんかねえぞ別に」
「十分面白いと思うけどな、こんなヤクザめいた探偵がいて、就業中の猫のストーキングしてるとか」
「ストーキングじゃねえ、観察だ」
「猫がストーキングだと感じたらその時点でストーキングだと思います」
「いじめセクハラ理論を適用するのはやめろ」

 しかし、未だに林沢からの連絡はない。昼頃、という約束が既にあいまいだ。人によって昼の捉え方は違う。流風としては十分今が昼頃なのだが。そう思ってスマートフォンをもう一度確認しようとした時、あろうことか薬局の固定電話が鳴り響いた。定休日にはほとんど鳴ることのない電話である。一瞬びっくりしたが、何か急な用件のある相手かもしれないと思い、その電話を取る。電話の相手は客でもなければ製薬会社でもない、新宿の警察署に所属する警官からだった。

『お知り合いの林沢冬馬さんが数日前から行方が分かりません。何か心当たりは御座いませんか』

 電話の向こうの声が言う。そんなものはない。つい一週間前に会って、今日会う約束だったのだ。
 不思議な事態に自然と少し声がこわばったが、当たり障りのない返答をすれば、そうですか、と電話は切れた。
 これはひょっとすると、もしかして、そういうことになるのだろうか。

「どうした、何かあったか」
「なあ桜井サン、これもしかしたら、猫ストーキングの汚名返上して余りあるヤマかもしんねえよ」

 今度は自然と口角が上がる。
 何せ中身の知れない探偵の仕事が間近で見られるかもしれないのだ。

「俺からの依頼! 薬局定休日の今日明日中に、俺の友人を探し出すこと!」
「断る」
「対価は後ろめたい情報の秘匿。断るなら今ここでケレスさんにバラす」
「すいませんでした」
「うわチョロい」

 契約は成立した。流風は薬局の扉に鍵をかけると、さてと、とひとつ息をついた。

「ま、今日の昼飯くらいは奢ってやるよ。仕方ねえな」

 もちろん行く先は、先週行きそびれたラーメン屋だ。
 気の進まない表情の拓海を先導して歩く流風は、非日常に少しだけ足を浸らせて、それだけで大変満足だった。

スポンサーサイト

2016.05.14(Sat) | 未分類 | cm(0) | tb(0) |

見たくないものまで見えるので

「起床の時間ですよ、穂積さん」

 冷たい床、固い布団。ここで寝泊りするようになって数日、未だこの環境に慣れず痛む背中をさすりながら、いつもと違う声が耳に入り起き上がる。
 枕元に置いた腕時計は午前8時半を示している。今日は土曜で非番だ。この時間でも慌てるようなことはない。

「……おはよ、みおちゃん。今日はみおちゃんが俺の専属メイドさんなわけ?」
「ご冗談を。たまたまいつも貴方を起こす方がこちらに向かうのが見えたものですから、ご挨拶のために代わって頂いたんです」
「へえ、俺なんかに興味持ってもらえるなんて光栄だなあ」
「ええ、貴方の処遇はとても気になっていましたから」

 全身を黒いワンピースに包んだ、女。物憂げな黒い瞳が、透き通るように白い肌によく映える。濡れたような真っ黒な長い髪もまた、彼女にはよく似合う。美意識が高い自負のある穂積から見ても、彼女は美しい。つい先日対峙した杉信由良に似た、眩暈のするような美しさを纏っている。彼女は名を一条 深桜里という。数年前この教団にやってきたばかりだが、地位としてはおそらく穂積より上になるのだろう。美人は得だねえ、と思ったことは何度もあるが、代わりたいとは思わないし、穂積自身地位というものにあまり興味はない。実力や実績が地位に伴って判断される場所だと考えていないというのもあるが、何よりも幼少期の体験――かの神との接触から生還し、今もこうしてここにいるということ自体に穂積は誇りを持っている。
 今回の一件で、穂積は軽く精神を病んだ。一般人が患うそれよりも随分と軽症ではあったものの、医学や心理学に心得があるくせに何たる失態、ということで、出勤・退勤時に逃げ出さないよういつも通勤は車での送迎がついていた。仕事も事情を説明し、基本的に内勤だけになっている。先輩である佐伯みやびには鼻で笑われる始末だが、自分でどうこうできるものではない。

「俺がこんな立派な部屋貰ってんのが羨ましいんだ? 代わろっか? それとも一晩一緒に寝てみる?」
「結構です。他山の石とするには十分な事例を目の前で見られて、大変お勉強になりました」
「いやいや、なかなか快適よ? 朝はちゃんと決まった時間に起こしてくれるしさー、床は固いけど、そうねえ、鍛えられてるってカンジ?」

 狭い牢に無造作に投げられているタオルを首に引っかけ、洗面台へと向かう。毎晩ここで過ごす度に凝り固まっている気がする腰を摩り、歩きながら解していく。深桜里はと言うとまだ何か用があるのか、託されたらしい牢の鍵を使って開錠し、中に入ると壁に凭れかかって穂積の様子をじっと見ている。
 教団の建物は大きな洋館となっている。穂積が入れられているのは地下に設けられた牢だった。ほとんど拘置所の独房に近い。しかし意外と快適に感じられたのは事実で、今が夏ということがあるだろう。日差しのないこのフロアは、地上に比べれば幾分かひんやりとしていて、空調がなくとも十分寝起きができたのだ。
 ばしゃばしゃと簡単に洗顔をし、手早く顔の髭を剃り、歯磨きをする。壁に備え付けられた小さな鏡越しに、深桜里と目が合う。しばらくそのままでいると、深桜里はふっと薄く笑って視線を逸らす。

「“神童”形無しですね。仕事も遂行できないのなら大人しく食われてしまえばよかったのに」

 歯ブラシを洗い、両手で水を掬って口の中を濯いだ。鏡で念入りに綺麗になったかどうかのチェックをする。

「ほんと、警察もココも、上の奴が言うのは楽で羨ましいねえ」

 何度陰口を叩かれたか知れない。あれだけ神童ともてはやされていたのに、今の体たらくときたら、と。そんなものは、穂積には知ったことではない。ずっとあの神秘性を維持しているのも、それはそれで素晴らしいことではあると思うが、自分にはできることがもっとあった。ただ崇められるだけの存在に比べれば、今のこの立ち位置の何と生きやすいことか。だから穂積は、これでいい。失敗して牢に放り込まれようと、この組織は自分を手放しはしない。
 首にかけたタオルでぐいっと顔を拭うと、つかつかと深桜里に歩み寄る。こうして目の前に立つと、数十センチの身長差がある。深桜里からは完全に見上げる形、穂積からは見下ろす形になる。右の掌を開いて、深桜里の顔の目の前で止める。彼女の小さな顔は、穂積の掌で簡単に収まってしまいそうだ。


「みおちゃん、“神童形無し”でも俺はここには捨てられねえのよ。すごいでしょ、羨ましい?」

「それはね、この掌にちょっと力を込めるだけでみおちゃんを簡単に殺せる力があるからなんだよねえ」

「みおちゃんだけじゃなく、この屋敷の人間全員を、やろうと思えば俺は殺せちゃうの。俺はそれを昔ほんとうにやって、できんの、今も」

 
 記憶を持って今を生きていることが、最大の抑止力になることを穂積は知っている。神の気まぐれのために生きることを許された子供を、今も恐れているのだ。それが穂積の唯一で最大の誇り。今こうしてここで生きていること。手広く自由に歩き回ること。このフットワークの軽さ。


「奴らが本当に俺に罰を与えるなら、俺がここを抜ける時だろうな。でもその時は、生半可じゃないモンをくれると思うよ。羨ましい?」


 いいえ全然。
 深桜里はゆっくりと穂積に視線を合わせると、にっこりと微笑んだ。




 牢暮らしの休日とはいえ、用事があった。黒のネクタイを締め、夏用のライトグレーのスーツに身を包む。警察の先輩である佐伯みやびには、「お前それホストにしか見えねえ」と言われたが、どんなスーツを着ていても大概言われるので、似合ってるって意味か、とポジティブに解釈するようにしている。こうしてポジティブに考えるだけで、大分世界は平和だ。自分の精神状態は良好だ。教団幹部にもそれは伝わっているらしく、今日は見張りはつけられなかった。元より逃げるようなつもりはない。
 電車を乗り継ぎ、やってきたのは空木大学だった。まだ夏休み期間ということもあって学生の姿はまばらだが、その中でも一際人気のない場所に向かって、穂積は歩いた。まったく人気のない校舎の裏にあるベンチに腰掛け、一息ついて腕時計を見る。約束の時間は午後2時。今は少し早いくらいだが、腕時計に影が落ちたので顔を上げると、一人の女子学生が屈託のない笑顔で立っていた。

「すみません渡会さん、お待たせしてしまいましたか?」
「んーん、今来たとこだよ。みっちゃんはゼミ平気なの?」
「はい。ゼミっていっても、自主学習ですから。強制じゃないので、今日はもう終わらせました」

 嬉しそうに穂積のすぐ隣に腰かけたのは、先の事件で一度は精神を病んで入院した、妹尾倫子だった。一度捜査のために病院でカウンセリングの真似事をしてからというもの、事件後も精神科医かカウンセラーのように対話を求められることが度々あった。当初は恐怖のため、退院したくない、病院から出たくないと泣いていたが、地道に対話を続けてこうして学業に復帰できる程度まで回復した。俺割とすごくね? と思う穂積である。
 元々精神医学や心理学は専攻していたわけではない。教団のために使える知識を身に着けに行ったので、本来の専攻としては内科なのだが、外科も必要性があってそれなりに学んだ。精神医学や心理学はほとんど一般教養に近い気分で履修したのだが、案外役に立つものだ。

「新しい先生は? どう?」
「はい、まあ、一応やりたいことがあって安仁屋教授のゼミに入っていたっていうのはありますけど、でも、学ぼうと思えばできないことないですし、今の先生もとっても親身になってくださるので不自由はありません」

 担当教授が逮捕されたのだから、学生の衝撃は大きかっただろう。特にゼミは専門的分野を扱っているだりうから、教員が変われば本の読み方ひとつとっても変わってくる。
 倫子は取りあえず、心理学を学ぶということについて拒否反応が出なかったのは素直に喜ばしいことだ。真面目な学生が一人減るというのは社会にとっても損失になる。

「あー、そりゃ残念だなあ。それじゃあ俺新学期からお役御免になっちまうなあ。まあ、それがみっちゃんにとっては一番いいことなんだろうけど」

 このまま生きるなら、それが一番いい。すべてを忘れることはできないだろうけれど、本当は関わらなくてよかったのだから。彼女は優しさ故に損をした。
 すべてを知る自分からすれば、彼女のような存在はとても愚かだけれど、だからこそ誰にでも好かれるのはよくわかる。
 倫子の思い詰めるような表情から、噛みしめる唇からひしひしと伝わってくるその愚かさは、誰にでも好かれるだろう彼女だからこそ、今ここで漏らすものではない。
 意を決したような瞳が、穂積を捉える。

「あの、渡会さん、私――」


 ごめんねみっちゃん、言われなくても全部わかっちゃうんだよね、俺。


 右手の人差し指で倫子の額に触れる。きょとんとした倫子の表情を見ながら、彼女には聞こえない大きさで短い呪文を唱えると、倫子の瞳はいっぱいに見開かれ、そして全身の力がかくんと抜けた。
 それを隣に座ったまま支えると、そのまま彼女が目を覚ますまでずっと、待った。


2016.04.24(Sun) | パロディ | cm(0) | tb(0) |

後日談風味だよよろしくね!!!



 吐く息がもう白く浮き上がる季節。駅の出口の階段を下りながら、拓海は自分の体を包むコートの存在に感謝した。外出する前、十月の事件以来、しばらくデスクワークに集中するようになった所長のケレスに今日の業務の内容を確認し、例の事件の報酬で新調したダークグレーのスーツのまま出かけようとしたところで、新入りの猫を構う新入りの事務員に声を掛けられたのだ。薄い茶色の体毛の子猫を撫でながら、新入り事務員に上から下まで全身を眺められた。

『……うるせェ』
『まだ何も言ってないでしょうが!!』
『視線がうるせェ』
『ちくしょう、新入りいびりが露骨だ!』

 ぷんすか怒りながら事務員――安藤圭一は子猫を床に下ろすと事務所の隅のロッカーへと大股で歩いて行き、がたんと扉を開けて中身を物色した。今にも壊れそうな錆びた蝶番がきいきいと悲鳴をあげる。ロッカーから取り出されたものに子猫が飛びついた。「こら、きなこ」と窘めながら圭一はバサバサとその黒い布を数度大きく振ってほこりを落とす。どう見てもそれは黒いトレンチコートだった。ほこりを払ったところで裾にはきなこがじゃれついているのだが、そこはあまり気にしていない様子だった。

『何だそれ』
『ケレスさんのお古です。新調したから捨てとけって預かったんですけど、まだ着れそうなんで』

 思わず拓海が「貧乏性」と呟くと、察しのいい子猫は拓海の足元でじゃれつくと靴下の上から足首に噛みついた。きなこによるこの手の嫌がらせは、この猫がここに来た時からずっと続いている。拾ってくれた圭一や、この事務所の所長であるケレス、たまに顔を出すオーナーの息子の炎而には懐いている様子なのだが、拓海にはさっぱり懐く気配がない。丸くなって寝ている時にたまの気まぐれで撫でてやろうと思っても、拓海が手を伸ばした瞬間に気配を察して飛び起きるのだ。運が悪いと引っかかれることすらある。
 「こら」と圭一がまた声をかけると、きなこはころりと態度を変え、圭一に歩み寄った。右手で猫の首根っこを掴んだ圭一は、残った左手でコートを掴んで差し出してくる。差し出されたから受け取ったが、正直、窓の外の陽気を見るに、邪魔である。

『かさばる』
『帰りは着るんですからいいじゃないですか』
『木刀持ってくんだが』
『いつものデフォルトの装備なんですからわざわざ考慮するもんでもないでしょう。とにかく、帰りはそれ着てくださいよ。まあ暴力団関係者にしか見えないのはいつものことなんで今更ですし』

 同意するようにきなこが圭一の腕の中でにゃあと鳴いた。わざわざ突っ返したり置いていくのも面倒で、結局コートは腕に掛けたまま出かけた。日中は日差しのおかげで十分暖かかったのだ。木刀を隠すための図面ケースも肩にかけ、そのほかに軽いとはいえビジネスバッグを持って歩くのだからそこそこ荷物があって、かさばるというのは冗談ではなく本音だったのだが、今こうして防寒に役立っているのだから圭一のまめさに地味に感謝をしなければならないかもしれない。多分しないだろうが。
 初冬の風吹きすさぶ中を、駅を出て数分川沿いの道を歩くとある、寂れたバーの扉の前で拓海は立ち止まった。腕時計で時間を確認すると、その扉を開く。

「おう、よく来たな」

 カウンターでいつものようにグラスを磨きながら、店主が声を掛けてきた。薄暗い店内には店主の他は誰もいない。
 風で随分冷えたコートを脱ぎながらカウンターテーブルに着き、隣の席に荷物とコートをまとめて置いた。

「相変わらず閑古鳥だな、商売する気あんのか?」
「うるせえな、いいんだよ道楽だから」
「そのうち道楽で破産しそうだな」
「そしたら情報のツケでお前から金もぎ取ってやるさ」
「何だ情報のツケって。人でなし」
「人のトラウマ抉って情報引き出した男に言われてもなあ」

 薄く笑いながら男が手際よく差し出したハイボールのグラスに口を付ける。ほどよい苦みと炭酸の刺激が口の中に広がる。
 このバー『無礼』は最近の拓海の行きつけとなっている。それまではどこへ行くにも車移動が多かった拓海だが、仕事帰りにここへ寄るために電車移動をすることも増えてきていた。今では気安く話せる店主の坂場は元刑事ということもあり、何かと共通の話題も多い。一杯目が注文無しで出てくる程度には親交を深めていた。

「で、なんだ今日は。仕事だったのか? 変な服着て」
「どう見てもやり手の外交官だろ?」
「俺が交番勤務なら確実に職質だな」
「……そりゃ俺も否定しないが、白金の交番が平和ボケしてたからか何のお咎めもなかった」
「白金? また何でそんな場違いな場所に」
「分かってたが、いちいち失礼だなあんた」

 拓海がため息をついて肩を落とすと、坂場はがははと笑って見せた。悪気は一切ないらしい。
 
「シロガネーゼのババアの護衛」
「ほう、んな仕事もやってんのか」
「まあ触手の異形と戦うよりはこっちのが本業に近いな。でも結局ババアの護衛じゃなくて、ババアが数時間留守にする間ババアの猫をお守りする仕事だった」
「猫!?」
「ああ。白くて毛が長い、いかにも高そうで性格悪そうな猫だった」
「はあ、まあ、それで払うモン払ってもらえんなら儲けもんだろ。少なくとも命の危機はない。今んとこお前しか頭数いねえんだろ。動けるうちに働きな」
「へいへい、先人の言葉には重みがあらァ」

 先日の事件があってから数度、拓海はここに足を運んでいる。その足が義足であることを知ったのもつい先日のことだ。動けるうちに働けというのは、坂場からすれば本当に文字通りの意味なのだろう。警察に在籍しているとかいないとか、そういう次元の話でないことは拓海もよくわかっていた。拓海自身、自分の性格上、単に捜査上に上がっただけの重要人物に、事件後も関わるなんてことは珍しいのはわかっている。それでもここに赴いたのは、坂場が自分と同じ境遇に過去あったことを知っていたからだ。
 あの気味の悪い本を読んでからというもの、ケレスは精神的に疲弊している。医者は静養するしかないと言っているようだが、実際その中身が何だったのかは拓海にはよくわからないでいる。わからなかったのはケレスが内容をぼやかして伝えたからではあるが、それゆえその忌まわしさの本質を、彼はひとりで引き受けることになってしまった。聞けば、幻聴の類に悩まされているらしい。あまり大きく動けないとなれば彼は事務所でデスクワークにしばらく専念するしかない。本部機能のように安楽椅子探偵をすることはできるかもしれないが、日常的にそんな必要性のある仕事が舞い込むかと言えばそうではない。動ける自分が力仕事を任されるのは問題ないが、拓海の気がかりはひとえに所長の精神状態なのであった。つまり、柄にもなく相談相手を求めてここに来たということになる。
 坂場の境遇は本人から聞いた通り、把握している。“相棒”のことはきっと蒸し返されたくないだろうということもわかっていた。お互い元警察官だったということ以外の共通項を持たなくても、拓海のような人間が相談めいた話をするのは余程のことだと気付いたらしい坂場は自分の経験を交えて拓海の話を聞いた。


『あの類のものは一般人が触るべきじゃねえよ。できるなら今すぐ焼いちまう方がいい。人ひとり自殺に追い込むような本が必要な奴なんてロクな奴じゃねえ』


『だが、危険だからこそできねえのも分かる。だからな拓海、今更手放せねえなら抱えさせるな。お前ができるのが一番なんだろうが、お前も俺と一緒で学はさっぱりねえだろう。お前にできるのは、金髪のあんちゃんにそれを触らせねえことだ』


『あのあんちゃんみたいな論理型の奴は、病状に目途がついたらまたチャレンジするからな。それもなまじ頭が回るから、“支障のないペースで”進めようとする。俺は中身のことはよくわからんが、人を死に追い込む内容にペースもクソもねえってことくらいはわかる。言い方は悪いが、あんちゃんが消耗してんなら今しかねえ』


『ここまでしてやったお前に同じ轍踏まれちゃ困るからな。無い頭使って賢く動けよ』


 これまであまり他人を信用してこなかった拓海ではあるが、この回答にはとにかく救われた気分になった。見抜きの仙、とはよく言われたものだ。ネーミングセンスは若干アレだが、と思わないではないし口に出すには恥ずかしい通り名なので、茶化すときにしか言いはしないが、まったくもって洞察に長けているオヤジだ、と思う。
 拓海が学のない頭を使って作った場が今日のこの場である。坂場にも伝えてはいないが、一応ここで待ち合わせをしているのだ。待ち合わせは午後七時半。拓海が店に入ったのが七時半少し前、今再び拓海が腕時計を確認すると時刻は八時になろうとしていた。連絡もないのはおかしい、とスマートフォンの画面を確認すると。

「……あ」
「どうした」
「いや」

 画面には拓海が店に入った直後くらいから現在に至るまで、一分間隔で電話があったことを知らせる履歴が実に三十件ほど。業務に支障が出ると困るのでサイレントモードにしていた上、時間の確認はすべて腕時計でしていたから気づくのが大幅に遅れてしまった。バーのドアベルが、ドアの開かれる音とともにけたたましく鳴ったのは、折り返しの電話をしようと拓海がスマートフォンを耳に当てた直後だった。高いヒールをいっそガツガツと聞こえそうなほど強く鳴らして歩く彼女の羽織ったコートから、おそらく電話の着信音がピロリロと響いている。無事に着けたのならそれで、と拓海が自分の通話を切ると彼女の着信音も消えた。
 肩より少し短く切り揃えられた髪はきつめのパーマがかかっており、彼女の少しきつめの眼差しによく似合っている。彼女がベージュのトレンチコートを脱げば、黒のスーツ姿が露になった。体のラインを強調するような開襟の白いシャツに、少し短めのスカートが性格やらスタイルへの自信やら何やらをすべて物語っている。

「拓海、あんたねえ、あんな説明でわかるわけないだろうがっ!! 何だ“川沿いのバー”って!!」
「俺に聞きゃいいだろ」
「だから電話したのに出ねえのはどこのどいつだ? ああ?」
「着けたんだからいいだろ、細かいこと気にすると白髪増えんぞ」
「死ねこの馬鹿熊がッ」
「痛えッ、ヒールで蹴るんじゃねえよ暴力女!」

 他に客がいないとはいえ、入店直後からのドタバタに坂場が息をついた。いらっしゃい姉ちゃん、と坂場が声を掛けると、女――佐伯 みやびは我に返って拓海の隣のカウンターチェアに腰掛ける。

「姉ちゃんは何にする」
「んー、こういうとこ詳しくないんだよな。こいつがバーなんて入り浸ってんのも初めて聞いたし。ま、いいや。こいつと同じので」
「あいよ。飲める姉ちゃんなんだな」
「伊達に男社会で働いてないってことで!」

 にかっと笑ってみやびがピースをしてみせると、大体の人となりが読めたらしい。害はないという判断だ。
 拓海に渡したものと同じグラスをみやびに渡すと、一応二人は乾杯の真似事をした。

「で? この気が強くて綺麗な姉ちゃんはなんだ? 彼女か?」
「「近くて遠いものです」」
「……ああ、なるほどな。彼女ってほど甲斐甲斐しくは見えねえからな……」
「心外だなマスター、あたしはこれでも“ちゃんとした”恋人には尽くすタイプなんだ」
「それを拓海が拝んだことはないってこった。まあ確かに尽くしてやりたくなる男ではないわな」
「だろ? わかってるねー、いいじゃん拓海、あたしこの店気に入ったよ」

 上機嫌でハイボールを飲み下すみやびを見ながら、坂場がにやにやしながら拓海に顔を近づけ、小声で話し始める。

「同僚か」
「同い年の後輩だ。俺は高卒、こいつは大卒。俺が4期上」
「なるほどな。……しっかし、わかりやすい好みしてんなお前も。俺もこういうタイプは嫌いじゃねえよ」
「有馬祥子が最初に着任した署で先輩だったのがこいつだ。じゃなきゃ呼ばねえ」
「なら、聞いてて気分のいいもんじゃねえな。俺は外すぞ、拓海」
「ああ、構わねェ」

 坂場がもうああいった事件に関わりたくないという認識は変わっていないことは拓海もわかっている。場所を変えればよかったのかもしれないが、気兼ねせず話せると言う面ではここが最適だと考えたのだ。
 出ていけと言われないのだから十分だ、と拓海は思う。しかし席を外すというのは、他に客が来ると言う想定を一切していないのだろうか。

「それじゃ、俺は少し外すから、ゆっくり話せ。注文があったら呼べば聞こえるから」
「あ、じゃあマスター、もう一杯少し濃いめでお願い」
「居酒屋じゃねえんだからあんま飛ばすなよ、姉ちゃん」

 坂場は手早く次のハイボールを作るとみやびに手渡し、勝手口の向こうへと消える。その背を確認してから、拓海は改めてみやびに向き直った。
 みやびもその空気を察して、グラスに口を付けながら横目で拓海の様子を確認している様子だ。

「……有馬の話聞いただけで驚いたってのに、辞めたあんたが関わってるってどーゆーこと?」
「探偵稼業だ、何に巻き込まれるかわかんねェな。“見抜きの仙”って聞いたことねえか? さっきのマスターだ」
「あー、都市伝説みたいなもんだと思ってたけどほんとにいたのか。残ってる逸話がファンタジーすぎてついてけなかったんだよなあ」

 そう言われてみれば確かに、と拓海は思う。やり手の刑事が、盟友であった精神科医が爆発事故をきっかけに引退なんてストーリーはドラマチックではあるが現実味には欠けている。
 それで? と今度は拓海が切り出す。元々有馬祥子の話を改まってするつもりはなかったのだ。品川の署に勤めていた後輩を酷使して、みやびが有馬と先輩後輩の関係にあることは事件後突き止めたが、だからといって終わった事件がどうなるというわけでもない。世間話のひとつとして有馬の話と、訳あってプレアデス劇場の爆発事故について調べているから当時回収された遺留品で何か特徴的なものがあれば教えてほしいとみやびに電話してみたところ、したい話もあるから久々に会って飲まないかと持ち掛けたのは実のところ彼女の方だった。拓海は落ち着いて話せる場所を提案したにすぎない。プレアデス劇場の話は突っ込むべきではないとは分かっているが、自分であの資料を読み解けない以上は他の切り口から劇のことを知るよりほかなかったためだ。口実ではあるが、収穫があれば儲けもの、程度の認識だった。

「ああ、まあ大した話じゃないんだけどね。引っかかるから、誰かに話したいだけだったんだ」
「何に引っかかった?」
「プレアデス劇場の爆発事故」

 みやびの指がつう、とグラスの縁をなぞる。

「あたし、大学の後輩にすげえアクティブな奴がいんだよ。あ、女だよ女」
「お前にそんな賢そうな後輩がいたとはな」
「うるせえ! それでまあ、そいつ大学出てからイギリスの院に留学して博士号とってさ、帰国したのが去年。分野的にそこまで関わりはなかったんだけど、去年そいつから連絡があって会うことになって、会ってみたらびっくりなんだけど、帰国したその足でスーツケース転がしてきたわけ。普通じゃないだろ?」
「私留学してたんですイギリスの風に当たってきたんです自慢するにはいいんじゃねえか?」
「……まあ、そういう節がないわけじゃない奴だから深くはつっこまなかったけどさ」

 しかし、みやびは後輩を確実に“普通ではない”と感じたという。雰囲気自体はそう変わっていなかったが、どこか凛と張り詰めたような印象があったと言うのだ。

「それでさ、思い出話もそこそこにいきなり切り出されたのがプレアデス劇場の話だよ。しかも事故そのものの話じゃなくて、事故当時上演されていた演目が知りたいってピンポイント具合で」
「……それで? お前はなんて答えた」
「あいつもあたしが警察だから頼ってきたんだろうけど、所管の署でもないしさ、でもでかい事故だったから調べれば演目くらいわかるかなとは思って、調べてみるって答えた。……ま、なんにも出てこなかったんだけどさ。わかんなかったって連絡した時の落ち込みようったらなかったな。“こういのおう、っていう劇のはずなんですけど”とか呟いてたけど、そんな言葉欠片も出てこなかったし」

 久しく聞いていなかったその単語に鼓膜が震えた。おぞましいその文字の羅列。
 そんなものを自分たちや坂場のほかに知っている一般人がいるなんて考えたこともなかった。

「……そいつ、こういのおう、って言ったのか。それが劇ってことまで知って、そう言ったんだな」
「? ああ、劇場で演じられてたって流れだから劇だってことは知ってるだろうな。そいつが連絡してきたのは去年のことだけど、あんたも劇場のこと嗅ぎまわってるみたいだし、何かあるのかなと思って」
「……イギリスに留学してたって言ったな。なら英語はできるんだな」
「そりゃあもう。日本語・英語・ドイツ語の読み書き日常会話には不自由しないって触れ回ってたよ。あとは学問上ラテン語も勉強してたみたいだったな、あたしにはさっぱりだけど」

 ――ラテン語。
 拓海は事務所の金庫の奥で眠る二冊の古びた本のことを思った。一冊は英語だと言っていたが、ケレスには読む時間がなかった。別の本を読み解くのでかなりの時間を消費したからだ。もう一冊は確かラテン語。それは時間的にも能力的にもケレスには難しいものだっただろう。手つかずの二冊の本。内容はわからなくても、ろくでもないものだとは坂場も言っていた。拓海自身もそう思う。あれは、ろくでもないものだ。一般人が手にするべきでないものだ。関わるべきではないものだ。
 ……それでも。

「……みやび、そいつの連絡先教えてくれ」

 みやびが目を見開いた。余程今の話の流れが異様だったのだろう。

「才女ってあんたの嫌いなタイプじゃない? 見てくれは結構いい奴だけど。それともラテン語教わりたいわけ?」
「似たようなもんだ」
「ふうん。まあいいけど。あたしも繋がりが気になって喋りにきたわけだし。んー、そうだなあ、いい店教えてもらったし、ちょうど切らしてるから煙草一箱でいいや」
「その文脈なら普通一本とかだろうが……」

 鞄をごそごそ漁ると、昼間依頼人の家へ行く前に三箱まとめて買った煙草があった。そのうち二箱を手に取ると、みやびの目の前に置く。

「お? 気前がいいな。さんきゅー」
「貸しだ貸し。警察に恩売っとくと仕事が楽になるもんでな」
「あたしに売っても何も出ねえぞ、品川のアイツがポンコツなんだよ」
「否定はしねェ」

 酷いっス先輩!!!と嘆くポンコツ巡査の声が聞こえたような気がしたが気のせいにすることにした。
 みやびは早速箱を開けると中身を一本咥え、お裾分け、と拓海に箱を差し出す。そこから一本を抜き取ると、それぞれ自分のライターで先端に火を点けた。ライターをジャケットのポケットにしまったみやびはスマートフォンを操作して電話帳の番号を表示させる。その名前と番号が、みやびの言う後輩のものなのだろう。

「――照井 瑶子。今は空木大学で古代西洋史の講師をしてる奴だ」





2015.11.05(Thu) | IF世界 | cm(0) | tb(0) |

胸の中で握り締める告白


 古めかしい台所に、香辛料の香りが漂う。混ぜる鍋の中身はカレー、辛口好きの同居人と、辛口が苦手な俺との折衷案で、我が家では中辛が採用されている。使うルーはいつも二種類、決めているわけではなく、その時安かったものをふたつ買っただけだ。一種類のルーしか使わないものよりかは、多少コクというか深みが出る気がして、いつもそうしている。今日の具はナスとひき肉。これは同居人が好きな具で――といっても、好き嫌いなく何でも食べるのだが。輪切りにして煮込んだナスはそろそろやわらかくなってきているし、ひき肉も程よく塊がほどけてきている。あとは少し煮込んで、仕上げは帰って来てからだ。炊飯器が炊き上がりの音を鳴らして、そちらを確認する。水で濡らしたしゃもじで釜の中を数度かき混ぜておいた。炊き立ての白米はきらきら照明を反射している。炊き上がりは上々だ。二人分のカレー皿を用意して、ちらりと時計を見たときだった。午後八時。玄関の鍵が開いたのは、俺が時計を確認した直後。

「おかえり、きーちゃん」
「たっだいまあ! おー、この匂いはカレーだなあ? 具は!?」
「ナスとひき肉」
「おおっ、さすがシノ!」
「いいから手洗ってこい」

 帰宅した女は屈託のない、邪気0%の笑顔で「はあい!」と片手を高く挙げ宣言すると、ばたばたとスリッパの底を鳴らして洗面所へと向かう。
 時間さえあればもっと煮込みたいところではあるが、俺も学校の授業があるしなかなかそういうわけにもいかない。明日には程よく寝かされた美味いカレーになっているだろうから、今日はこんなもんかと火を止めた。
 廊下の向こう、洗面所からばしゃばしゃと水の音がする。手を洗うついでにメイクも落とすのが流れだから、顔を洗っているんだろう。俺はその間に二人分のカレー皿にご飯を盛り付け、ルーをかける。それが終わったらカレー鍋には蓋をして、右側のコンロに寄せる。それまで鍋を乗せていた左側のコンロにはフライパンを準備。油を引いて火にかけて温める間に、冷蔵庫から卵を二つ分取り出して、ボウルでかき混ぜる。やわらかく仕上げるにはマヨネーズを入れるといいとネットで見かけて、以来そうしている。温まったフライパンに卵液を流して混ぜること10秒。一度フライパンからボウルに卵を戻し、温度が均等になるよう混ぜて、またフライパンへ。後は形を整えて、出来上がったそいつを片方のカレーの上に乗せる。真ん中で切ると半熟になってる、あのオムレツだ。カレーだろうがハヤシライスだろうがオムライスだろうが、このオムレツをいたく気に入っている同居人のおかげでひとつ作るくらいならいつものことなので大した手間ではない。

「あ、オムレツもできてる」
「ん、今作ったとこ」

 ひょっこり居間に戻ってきた同居人は、相変わらず締まりのない顔でへらりと笑った。俺はカレー皿ふたつとスプーンを二本手の隙間に持って、テレビの前の座卓にそれらを持っていく。畳の部屋、二人だけの生活には少し大きな座卓。ここ10年は、二人でここでテレビを見ながら食事をするのが当たり前になっている。今日は時間がなかったから付け合わせなんかは特に準備していない。同居人はそういうのはあまり気にしていない様子で、テレビの電源を入れた。

「あ、ほらほらシノ、この子この子、あんたに似てるなあってよく思うんだよねー、言われない?」
「言われるけど似てない」
「えー、そうかなあ。目のおっきいとことかー、髪の感じとかー、あ、でもシノの方が背高いかな」

 テレビの向こうのバラエティ番組で司会を務めるアイドルグループ。そのうちのひとりに俺の姿が似ているとよく主張する同居人は、リモコンを置くとぱんっと手を合わせて、「いただききます!」とこれもまた高らかに宣言。カレーの上のオムレツを割って嬉しそうにしている。年考えろよ、何歳だよお前。
 俺もまた彼女に倣ってスプーンを手にする。ちらりと横目で見るテレビの向こうには、煌びやかなアイドルの姿がある。
 俺があんな存在だったら、ちょっとは見方を変えてくれるというのか。もう少しだけでも近づいていいと言ってくれるのだろうか。言わないだろうなあ。こいつはそんなこと微塵も思わない。赤の他人であるこのアイドルに言い寄られたって、普通の女のようになびいたりは絶対しないと断言できる。そうじゃなきゃ10年近くも俺をひとりで育てたりできるものか。

「しかしこの料理の腕前は誰に似たのかな、あたしじゃないなあ」

 オムレツの乗ったカレーを頬張りながら大真面目に女は言ってのける。
 俺は答えるつもりはない。テレビの向こうの喧騒を見ながら、カレーを咀嚼する。

(努力ですから、似るわけねえだろ)




 きーちゃんこと、長屋 季映。この家の持ち主であり、十歳年上の俺の姉であり、片想いの相手であり、生物学的に母でもある。
 身長は女性としては平均的なくらいだろう。体格は華奢だが、仕事が肉体労働だからか、腕についた力こぶをよく自慢してくる。大食らいだが食べるのは遅く、こうして俺がカレーを一皿完食した時点で自分はまだ半分ほどしか食べていない。テレビ見ながら雑談してるのが原因の7割近くを占めているとは思うが。髪は肩より少し短いセミロング。顔はまあ、十分、かわいいと思う。
 この家は元々ばーさん……俺からすれば曾祖母にあたる人の持ち主だったが、その人が死んできーちゃんがいくばくかの遺産とこの家を相続した。その時きーちゃんは22で、俺は12だった。それまで姉として接していた相手が、急に母だと名乗って頭はついていかなかった。まあ、細かい生い立ちみたいなのは割愛する。話せば長くなるし。
 彼女は高校を卒業してからがむしゃらに働いていた。ばーさんはあまり体が強くなく、いずれ俺をひとりで育てなければならないと見越していたようだった。転勤する仕事にはつけないし、お世辞にも頭がいいわけではなかった。今は宅急便の配達スタッフとして働いている。この華奢な体でよくやるよ、とこれでも俺は敬服しているのだ。家は相続したものがあるから家賃はかからないとしても、毎月毎年の税金と、生活費と、俺の学費がある。すぐに払えるものではないから教育ローンは組んでいるが、それでも俺はこの十歳年上の母親に一生頭が上がらないだろう。

「うん? シノもう食べ終わったの? おかわりすれば?」
「そんなに腹減ってないし」
「おっきくなれないぞ」
「十分でかいっての」

 立ち上がって皿を流しで水につけ、戻るついでに鞄から本を取り出し、居間に戻る。食器を洗うのはきーちゃんの仕事だ。
 建築史のレポートの提出があるから、課題書だけでも読んでおかないと後が辛い。だからといって歴史に興味があるわけではないのが辛い。
 小さい口でまだカレーを頬張りながら、きーちゃんは俺の顔をじっと見つめる。この女、年ももちろんまだ若いが童顔だ。一度妹と間違えられた時のしたり顔といったらなかった。

「それ何の本?」
「日本建築史」
「あたしにわかる言葉で」
「日本の建築の歴史」
「それくらいはわかる」
「じゃあいいだろ。それ以上でもそれ以下でもないよ」
「シノ冷たいなあ。なに? 反抗期かあ?」
「だったらメシなんか作るかよ」
「だよねー」

 俺が本を読み始めて十数分。やっとカレーを食べ終えたのか、流しに皿を置いてから、壁に寄りかかって本を読む俺のすぐ隣に腰を下ろして、きーちゃんは俺の顔をにやにやしながら見ているだけだ。集中できない。邪魔だからどいて、という意思をこめてその頭をぺしんと叩いてやると、何故だか嬉しそうに笑う。

「叩かれて笑うってなんなの。変態?」
「かっこいい息子とスキンシップとれるなんて幸せだなあって」
「次から金とるか」
「うわ、鬼だ! こんなに頑張って働いてるのにっ」

 そりゃそうでしょうとも。俺は高校出て働くっつったのに、シノは賢いんだからちゃんと大学出なきゃダメ! とか言って大学に通わせていただいてるんですから。自分の申し出を無碍にされても、きーちゃんの言い分には逆らえない。俺さえいなければもっと違う別の人生を歩めたかもしれない、きーちゃんの提案はきーちゃん自身が辿りたかった道かもしれない。そう思うと、どうしたって俺は弱くなってしまう。俺を産んでくれてありがとう、生かしてくれて、育ててくれてありがとう、俺のために生きてくれてありがとう、――なのに好きになってごめんなさい。一生言えるはずのない謝罪の気持ちを抱えながら、ぬるま湯の辛い日々を生きる。
 よよよ、と目頭を拭う振りをするきーちゃんの目の前に、ひらりと左手を出す。何も持っていないことを確認させて、ぐっとそのまま拳をつくる。

「いち、に、」

 三拍子の掛け声。
 さん、と呟いて、同時に拳を開く。そこにはきーちゃん愛用のミルク味のソフトキャンディーがひとつ。歯にくっつくから俺はあまり好きではない。
 包装を剥がして、飴をつまむと彼女の口に指を近づける。あ、と開いたその小さな口の中に飴を放り込むと、ぱっとまた花の咲くような笑顔が広がった。

「おつかれさん」

 きーちゃんが傍にいてはいろんな意味で邪魔なので、とっとと自室に退散することにする。本を片手に立ち上がると、もごもごとキャンディーを噛みながらきーちゃんが俺を見上げた。

「シノのこれはいつもながら魔法みたいだよね。今度タネ教えてよう!」

 これはまあ、マジックを披露すると毎回言われることだ。カードマジックなんかやると特にうるさい。
 で、俺の返答はいつも決まっている。襖を開けて居間から一歩踏み出して、首だけで振り向く。

「やだね」
「もう、けちー!!」

 何と言われようと承諾しかねる。
 タネがわかったらもう気にしてくれなくなるだろ、ばか。




2014.02.23(Sun) | 星霜館 | cm(0) | tb(0) |

Re:light ④



 その剣をスルタンから賜ったのは、砂漠の国に戻り、改宗をした直後のことだった。まだ両腕が機能していた頃の話である。
 
『その剣を身に着けているといい。いざとなれば使えるし、両刃の剣よりこの国では力がある』
『はあ、そうなんですか』

 その剣は、今までケイが使っていたものと比べると、変わった形をしていた。まず、細身だ。そして、長い刃は途中で緩く湾曲している。最大の特徴は、その先端が割れていることだ。先割れの湾刀。使えないことはなさそうだが、慣れるまでには練習といくらかの実践が必要になりそうだった。今腰に下がっている、使い慣れた両刃の剣にそっと触れて、いよいよこれを手放す時が来たのだと、ほんの少し後ろ暗い思いを抱いたことを覚えている。
 そんなケイの思考を見透かしたかのように、スルタンは笑った。

『いや、いいんだ。手に馴染んだものを使えばいいさ。言ったろう、“身に着けているといい”と。使うのはそれしか手元にない最悪の場合だけで十分だ。もっとも、君の腕ならその湾刀だけでも十分力を発揮してくれるだろうが』
『いえ、そんなことは。……では、新たにこれを提げて歩けと?』
『そうだ。君を騎士として認め、育てた剣を捨てるというのはあまりに忍びないだろうしね。それがあれば、まだ君を快く思わん宮殿の連中も、市井も味方につくだろうよ』

 使い慣れた剣ほどではないが、こちらもやはり重みはある。刀そのものの重みというよりは、歴史や思念の詰まった重みだ。刀身と、鞘にも彫りでの装飾が施されている。もしかすると、実戦用ではなく儀礼用のものなのかもしれない。

『スルタン、これは儀礼用の剣では』
『ああ、ここしばらくは実戦で使うことはなかったよ。代々ボクらが持っていたものだからね。でもその剣は、いずれ実戦で使ってこそ真価を発揮する』

 傍らに置いたグラスを手に取ると、中の赤い葡萄酒をスルタンはくいっと一気に呷る。

『その剣はボクの“総意”だ。どう受け取ってくれても、どう使ってくれても構わない。折ってくれても失くしてくれても構いやしないよ、剣に気負う必要もない。信仰を変えてまでこの国に尽くそうという君の意思に、力ばかりあるその剣を託す。ボクが宮殿で持っていても仕方ないものだからね』

 この剣が宮殿に代々伝わる、国の人間ならまず知らない者はいない伝説の刀剣である、ということを知るのは、もう少し後のことであった。





 結局飲み明かして眠った記憶もなく意識がなくなったのはおそらく明け方ごろで、目を覚ますともう陽が高く昇っていた。俺も立場わかってないなあ、などと思いながら水場で顔を洗っていると、砂嵐が来る、と遅れてやってきたケレスが呟いた。
 ケレスが砂漠の天候をほぼ正確に予測できるという話は前に聞いたことがあったので、特別驚きはしなかったが、今空を見上げてもその兆候はまるで見られない。相変わらずの暑さ、からりと空気が乾いた快晴だ。外套をばさりと羽織りながら、ふうん、と今一度空を見上げる。ケイ自身、砂漠という場所について詳しいわけではない。こちらに来てもう短くはない時間が過ぎているが、ここで生き抜いてきた者の意見をさらりと流してしまうほど愚かであるつもりもなかった。

「時間までわかるの?」
「夕方から夜にかけてだろうな、今ここを出たらしばらく戻るのは難しい」
「そうか。……まあ、行かざるを得ないんだけどさ。君とヒロ君がぶつかるなんて不毛な戦闘は見たくないよ。後片付け面倒そうだし」

 欠伸をしながら大きく伸びをして、眠気を空に飛ばす。
 これから夕方となるとそう時間は多くない。問題はどこに向かうか、だ。

「見当はつけてんのか」

 近くの木に背を預けながら、伏し目がちにケレスが問いかければ、ケイは少し考えて、そうだなあ、と笑った。
 急いで宮殿を飛び出したはいいが、正直情報は少なすぎる。だからといって第二、第三の犠牲が出るのを待つわけにはいかない。
 
「大規模な殺戮は今回が初めてだったとすると、元は個人の快楽犯だったのかもしれない。今回のは城下からの馬車だったのもあるし、被害の規模も規模だったからね、情報の回りが早かった。これが、行商人ひとりが殺されただけ、って事件だと俺たちの耳にはなかなか入ってこない。場所によっては誰にも気づかれない場合もあるし、誰かが気づいて回収したとしても、役人でもなければわざわざ宮殿に情報を上げたりしないからな。ケレス君は、最近この辺で他殺体を見たことは?」
「特別意識して死体なんざ見るかよ」
「注意力散漫だといつか足元掬われるよ」
「そこまで落ちてねえ、馬鹿にすんな」

 結局、この砂漠ではケレスたちだけに留まらず、盗賊と呼ばれる連中が幅をきかせている。それが隠れ蓑になっているのだ。あの惨状を見るに単独犯とは考えられないから、集団で馬車を襲い、中の奴隷達を気の赴くまま殺している。そこに至る前に、その集団は個々が殺人なりそれに準じたことをこの砂漠でやっているはずなのだ。砂の海にどれだけ死体が増えたところで役人は動かない、やりたい放題できることがわかって、調子に乗っているといったところだろうか。ケイが宮殿を出たことで、表立った捜査は宮殿の方ではまだ何もしていないだろう。宮殿からの命がなければ、この近辺の町に常駐する役人も動かない。追っ手のない、この空白の時間で犯人は味をしめているだろう。となれば、都合のいい標的が現れれば近いうちに必ず行動を起こす。
 都合のいい標的が、高確率で出入りするであろう町。ケイはそこまで考えて、ちらりとケレスを見やった。視線に気づいたのか、ケレスもまた横目でケイを見て、息をつく。

「港町だろうな」
「そうだな、同感だ」

 宮殿のあるオアシスは最大規模だが、首都のど真ん中であるため、役人も多い。好んでそんなリスクを負うことは考えにくい。ならば、荷の出入り、人間の出入りも多い町。単にオアシスの町なら人間の出入りは多いだろうが、荷馬車を用いた出入りが激しいのはやはり港からのルートだろう。これが終わって宮殿に戻ったら早急に整備に取り掛かるべきだ。
 
「ここから港町まではどれくらいかかる?」
「一般的なルートをとれば半日だな。お前の腕なら多少縮まるだろうが、それでも今からじゃ嵐に捕まる」
「君がそう言うならそうなんだろうな。……それで、一般的じゃないルートを取ると、どうにか嵐に捕まらずに町まで着けると?」
「馬の力による。でかい砂丘を速度落とさずに越えられればその分早くは着く」
「あいつは俺とセルセラの山を越えてきたんだ、どうってことない」

 ラシードとフィンブルヴェトの国境にそびえる山脈。あの山々を共に越えてきたのだから、砂丘のひとつやふたつは脅威ではない。
 問題があるとすればケイの左腕が足りないことくらいだが、そんなものは今は問題ではないし、馬も問題と捉えてはいまい。
 外套のフードをかぶると、こもるような熱気に思わず苦笑した。

「悪いけどケレス君、案内役頼めないかな」
「対価がねえと話にならねえな」
「対価?」

 うーん、と顎に手を当て、数秒悩んだケイは顔を上げると悪びれずに極上の笑顔を見せた。

「君の右眼を守ってあげるよ」
「宿代と酒代、あとは馬の餌代と手間賃まとめて後で請求してやる」
「うわ俺の提案無視だな!?」
「持ってった奴に守られるなんて笑い話があるか」
「名案だと思ったんだけど」
「全力で甘いんだよてめえの思考回路は」

 そう言ってケレスは近くに掛けてあったマントを手に取るとその肩に掛け、歩き出した。迷わずにその背を追う。
 さあ、出立だ。
 本当は、まだ頭の中がまとまりきらないで蟠っている。どうしたいのか、どうすればいいのか。
 スルタンの“総意”に応える行動を、とれるのだろうか。
 使い慣れた両刃の剣と、その傍に携えた湾刀の鞘同士ががちゃりとぶつかって、音を立てた。



2014.01.31(Fri) | rebellion | cm(0) | tb(0) |

一応メモ

アンドゥーと紗央に瑶子さんブチ込んでやかましくなる話。



・アンドゥーの部屋の給湯器が故障してお湯が出なくなって、冬場なのに風呂に入れず困る
・仕方ないので紗央の部屋の風呂貸してやる
・ちょうどアンドゥーが風呂から上って、よくあるお決まりの「ほら髪ちゃんと拭けてないじゃない」からのタオルドライサービスイベント
・の途中で瑶子さん襲来。アンドゥーを部屋に上げたあと玄関の鍵閉めるの忘れててあろうことかノーインターホンで乱入
・第一声は「同棲始めたなんて聞いてないけど!?」です
・そのあと軽い自己紹介でもって「あなたの街の地獄耳! ドクター照井 瑶子です! 瑶子さんって呼んでね!」というあなたの街ってなんやねんお前今イギリス住まいやん、というツッコミ
・「君のことなんて呼べばいいかなあ? 紗央ちんは紗央ちんだしー、奈央ちんは奈央ちんだしー、うーん、圭ちゃんとかでもいい気がするけど、あ、紗央ちんの視線が痛いので安藤くんにしますね、あんどー君!」「は!? いいわよ別に呼び捨てだろうとなんだろうと好きなように呼べばいいじゃない!」という茶番
・一通り自己紹介が終わって突然そわそわしはじめた瑶子さんに「何よ」って紗央が声かけると突然気まずそうな顔するので更に問い詰める
・「えっと、大きい声で言っていい? ちょっと想像したのよりずっとぱっとしない感じだったから面食らっちゃって」「それなんでわざわざ大きい声で言うわけ!? なんで了解とろうと思った!? ていうか了解取る前に話し始めてるし!」という漫才
・アンドゥーはアンドゥーだから若干へこみつつ、「いやぱっとしないのは本当だし」とか言うけど、この女ども「そうだよねー、ほら本人わかってるー」「そりゃそうかもしれないけど……」とか言うからほんとこいつら
・「ごめん圭一、こいつ見てわかる通り面食いだから」「そう、面食いなんです!」「なんで謝られるのかわかんないし面食い連呼されると死にたくなるんですけど」という漫才にアンドゥーも参加
・「ほらほら、だってさー、紗央ちんの思い出の彼の顔面偏差値はきっと80越えなんだろうなあって私の期待値がね! 高くてね! だからそんな紗央ちんの次なるターゲットはもっとすごいのではなかろうかと!」「そんなわけないでしょ!」「あんたら精神攻撃で俺を殺す気だな!? そうだろ!?」と更に参加
・でも実は瑶子さんとかにタっくんの思い出話してるってことを知ってちょっと複雑なアンドゥーがいたら俺得
・「で、なんで急に帰ってきたのよ」と紗央に聞かれて、「え、日本のドラマ面白いからちょっとツタヤに入り浸って一週間ガチでドラマ鑑賞しようかなと」「え、それ俺も混じっていいですか、地味に見たい」「……何地味に参加しようとしてんのよ圭一」「いや、だって紗央さんと見るの映画ばっかりだし、洋画だしアクション多いし」「ほほーう、ダメじゃん紗央ちーん、洋画はいいけどラブストーリーにしなきゃいいムードにならないよー?」「うるさい馬鹿黙ってて!!!」みたいな天然アンドゥーと茶番コンビ


まあ紗央のとこには顔見に来ただけで、泊まるのは双子のところなんだろうな。
だから数時間で帰っていくんだけど、瑶子さんが理央の彼女って知るのはその後でもいいかな。


「……あの人何なんですか、すごいテンションでしたけど」
「え、理央の彼女。知らなかったの?」
「は!? …………あ、あー、……でもなんか、わかる」
「でしょう」
「面食いだし、賢いし、理央先生振り回されてそう」
「あんなだから遠恋でも続くのよ、理解できないけど」

アンドゥーは理央に彼女がいることは知ってても実際名前聞かないし写真も見たことないから、実在しないんじゃないかとちょっと思ってたりしてな。
まあいい。寝る。メモ楽しい。

2014.01.17(Fri) | しゃべり隊 | cm(0) | tb(0) |

花が咲いたその先で




 幼い娘の手を引きながら、商店街を歩く。夕暮れの賑やかさに娘のみのりは色の違う両目を輝かせてきょろきょろしている。娘のそんな元気な様子を間近で見るのが、母である紗央にとって唯一の生きがいとなっていた。
 実家は元々宝飾店を営んでいた。それなりに大きな会社で、両親はいつも海外で仕事をしていた。顔を合わせることがほとんどなかった両親を顧みることなど、若く思慮に欠けた紗央ができるはずもなく、学生の頃はろくに勉強もせず夜は出歩いてばかり、本当にろくな娘ではなかったなと自分でも思うほどだ。もしみのりがあの頃の自分と同じ生活をしていたなら、間違いなく頬を叩いて矯正させる。そうするのが親の仕事だ。

「おかーさん、きょうはね、ねんどあそびした」
「そうなんだ。何作ったの?」
「ねこ! せんせいにもね、ほめられたの。かわいいねって」
「そっか。みのりはねんどあそび上手だもんね」
「うんっ」

 夕飯はシチューにしよう、と冷蔵庫の中身を思い出しながら紗央は考える。確か鶏肉がまだあったはずだ。にんじんも野菜室にまだある。

「みのり、夕ご飯シチューでもいい?」
「うん! おかーさんのごはんおいしいからなんでもいい! みのり、すききらいしないよ」
「そうだよね、みのりはぜーんぶ食べてくれるもんね。えらいえらい」

 えへんと胸を張って誇らしげな娘を、心の底から愛おしいと思う。
 こうして母子ふたりだけの生活になったとしても、この子を産んだことだけは後悔しない。するわけがない。






 この六畳一間のアパートは、一人で暮らし始めてすぐ借りた場所だ。家賃は安く、今のところ騒音もなく、不便はない。
 キッチンでシチューの用意をしている間、みのりは部屋の隅に置いているテレビを見て大人しくしている。人並みにぐずることはあるけれど、聞き分けは良い子だ。それに、空気を読むのが上手い。紗央がストレスで苛立っているときは更に苛つかせるようなことは絶対しない。偶然かもしれなかったが、そんなみのりに紗央は感謝している。
 高校在学中の頃からだ、親の目がないのをいいことに、男と同棲していた。料理は得意だったし、家事も嫌いではなかった。反面、相手の男は家事が壊滅的だったから、ちょうどいい関係が成り立っていた。それがみのりの父親で、妊娠がわかったのは高校の卒業式目前のことだった。紗央なりに男のことは心から愛していたし、欠点も多々ありはするけれど、それすら大事だと思えるほどの相手だった。相手からも、嫌われていたとは思えない。愛情表現は過多なくらいだったし、とてもいい関係が築けていたと思ったのに、子供ができたとわかった途端に男は掌を返して紗央を部屋から追い出した。その時のことは今でも忘れない。二月も下旬のまだ寒い日だった。手近な鞄に紗央の服を手あたり次第詰めて、紗央に押し付けて扉の外へ追い出し、「めんどくせェもん作りやがって」と吐き捨て、目の前で扉を閉めた。
 ――あたしひとりでつくったものじゃないのに。
 そう思って唇を噛みしめ男のアパートを離れ、歩きながらどれだけの涙をこぼしただろう。道行くひとには奇異の目で見られ、それでも止めることなどできなかった。作りたくてつくったわけじゃない、とはどうしても思えなかった。腹の中に宿る、この子の存在を知って自分は心の底から嬉しかったのだ。一緒にいる家族ができるんだと。

「おかーさん、おてつだいする?」

 見ていた番組が終わったのか、黒髪を揺らしながらみのりがこちらにやって来る。その頭を軽く撫でてやりながら、そうねえ、と紗央は思案する。何を手伝わせるにもまだ幼い。

「じゃあテーブル拭いてくれる?」
「はあい! あ、ちがう、がってん!」
「ふふ、なにそれ」
「ほいくえんでね、おとこのこが言うの。がってん! って」

 思ったよりボーイッシュに育っている娘は、一体どんな風に成長していくのか、今後が楽しみだ。濡れぶきんを手にぱたぱた忙しそうな娘のために、急いでシチューを煮込んでいく。
 男の部屋を追い出された紗央が行く場所など、あとは実家しかなかったが、本当に運の悪いことに紗央の不在の間に帰国していた両親が、何故不在にしていたのか理由を問いただした。学校はどうしていたのか、食事は、寝場所は、などなど。詰問されるままに答え、ついには妊娠していることも告白した。両親は激怒し、未成年に手を出すような男の子供など産むなと怒鳴った。それだけはできないと抗えば、今度は実家さえ追い出された。勘当というやつだ。幸い高校の卒業資格はもらえたので、選ばなければ働き口はある。――身重の体でできることなどたかが知れてはいるだろうが、それでもやらないわけにはいかなかった。子供を死なせることだけはしたくなかった。
 高校を卒業したとはいえ、お世辞にも賢くはなかった紗央ができる仕事などたかが知れていた。一時期は調理師の資格も取ろうと思っていたけれど、金銭的にも時間的にもそんな余裕はなかった。ファミリーレストランのホールの仕事をいくつか掛け持ちして、昼も夜も働いた。いくらか補助が出るにしても、自分のこれまでの貯金だけでは心もとなすぎる。
 このアパートはその頃から借りている。大家も理解がある人で、とても助かった。病院で無事みのりを出産し、退院してもすぐに仕事をせねばならず、みのりを預ける保育園も探さなければならなかった。仕事をしないと育てていけないし、家賃も払えなくなる。お金がないからといって生まれたばかりのみのりを放置していけるはずもない。みのりが乳児のうちは、正直何度も何度も頭を抱えた。
 もっと、この子を産んで育てていくのに、上手いやり方があったのではないだろうか。彼に捨てられることがなければ、父親のいない生活を強いることもなかったんじゃないか。両親ともっと真面目に話し合っていれば、少なくとも今ほどの寂しい思いも肩身の狭い思いもさせなかったのではないだろうか。自分の考えの浅さがみのりをどんどん不幸にする気がして、それでもみのりを手放すことだけは考えられなくて、みのりをきちんと育てていくためだけに、本当にがむしゃらになって働いてきた。食費に裂ける金額は多くないけれど、その中でもできるだけおいしいものを食べてもらえるように、家でもたくさん工夫をした。紗央がすることを全部みのりは喜んでくれて、辛い時は助けてくれて、そばにいてくれて、ああそうだ、こんな家族がほしかったんだとひとり嬉し涙を零したこともある。

「おかーさん、テーブルふけた!」
「うん、ありがとう……」

 嬉しそうにこちらに戻って来るみのりに微笑みかけて、またその頭を撫でようと腕を上げた時、すうっと膝から力が抜け、気が付くと床にうつぶせになっていた。呼吸がしづらい。あ、鍋火にかけたままなのに。

「おかーさん!? おかあさんっ」

 心底驚いた顔で屈んで紗央の顔を覗き込むみのりが、あ、と気づいてコンロの火を消したことに、場違いながら紗央は驚いた。そんなこともできるようになっていたのか。
 かろうじて動く右腕でみのりの頬を撫でる。おかあさん、おかあさん、と涙交じりで叫ぶ娘の声に、大丈夫だよ、と返したいのに声が出ない。
 
(あたしここで死んじゃうのかなあ)

 まだ、みのりにしてあげてないこといっぱいあるのに。ランドセル買ってあげて、入学式に出て、写真撮って、算数の宿題一緒にやって、夏休みの絵日記も、あさがおの栽培も、自由研究も、もっと、もっと、たくさん。あたしにしかしてあげられないこと、たくさんあるのに。父親はいないけど、でも、あたしだけでも、ずっとずっとそばにいてあげなきゃいけないのに。
 ぼろぼろ涙をこぼして泣いていた目の前の娘が、急にぐしぐしと涙を服の袖で拭うと、立ち上がって駆けだした。向かったのは紗央がいつも使っているバッグのところだ。鞄の中を漁って、紗央の携帯電話を取り出すと、ぱたぱたと走って部屋の外へ出ていく。
 何をしようとしているのか、倒れたままの紗央には見えないが、ドンドンと扉を叩く音は耳に入って来る。お隣は一人暮らしの学生だ。あまり顔を合わせることはないけど、真面目そうな。

「おかあさん、たすけてください、おかあさん、いちいちきゅう、してください」

「おかあさんたすけてください、おかあさんが、おかあさんが、みのりの、おかあさんが、」 

 ついに堪え切れずに再び泣き出したらしい娘の声を聞きながら、ゆっくりと紗央の視界は暗闇に沈んでいった。




2014.01.16(Thu) | 擬似親子 | cm(0) | tb(0) |

/
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。