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軽石へちま

Author:軽石へちま
基本自キャラで凄まじく妄想してみる。
隠れ家なのでBLとか黒とか暗とか主。
キャラ崩壊必至。何とも思わないけども。
妄想についてこれる人だけどうぞ。

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見たくないものまで見えるので

「起床の時間ですよ、穂積さん」

 冷たい床、固い布団。ここで寝泊りするようになって数日、未だこの環境に慣れず痛む背中をさすりながら、いつもと違う声が耳に入り起き上がる。
 枕元に置いた腕時計は午前8時半を示している。今日は土曜で非番だ。この時間でも慌てるようなことはない。

「……おはよ、みおちゃん。今日はみおちゃんが俺の専属メイドさんなわけ?」
「ご冗談を。たまたまいつも貴方を起こす方がこちらに向かうのが見えたものですから、ご挨拶のために代わって頂いたんです」
「へえ、俺なんかに興味持ってもらえるなんて光栄だなあ」
「ええ、貴方の処遇はとても気になっていましたから」

 全身を黒いワンピースに包んだ、女。物憂げな黒い瞳が、透き通るように白い肌によく映える。濡れたような真っ黒な長い髪もまた、彼女にはよく似合う。美意識が高い自負のある穂積から見ても、彼女は美しい。つい先日対峙した杉信由良に似た、眩暈のするような美しさを纏っている。彼女は名を一条 深桜里という。数年前この教団にやってきたばかりだが、地位としてはおそらく穂積より上になるのだろう。美人は得だねえ、と思ったことは何度もあるが、代わりたいとは思わないし、穂積自身地位というものにあまり興味はない。実力や実績が地位に伴って判断される場所だと考えていないというのもあるが、何よりも幼少期の体験――かの神との接触から生還し、今もこうしてここにいるということ自体に穂積は誇りを持っている。
 今回の一件で、穂積は軽く精神を病んだ。一般人が患うそれよりも随分と軽症ではあったものの、医学や心理学に心得があるくせに何たる失態、ということで、出勤・退勤時に逃げ出さないよういつも通勤は車での送迎がついていた。仕事も事情を説明し、基本的に内勤だけになっている。先輩である佐伯みやびには鼻で笑われる始末だが、自分でどうこうできるものではない。

「俺がこんな立派な部屋貰ってんのが羨ましいんだ? 代わろっか? それとも一晩一緒に寝てみる?」
「結構です。他山の石とするには十分な事例を目の前で見られて、大変お勉強になりました」
「いやいや、なかなか快適よ? 朝はちゃんと決まった時間に起こしてくれるしさー、床は固いけど、そうねえ、鍛えられてるってカンジ?」

 狭い牢に無造作に投げられているタオルを首に引っかけ、洗面台へと向かう。毎晩ここで過ごす度に凝り固まっている気がする腰を摩り、歩きながら解していく。深桜里はと言うとまだ何か用があるのか、託されたらしい牢の鍵を使って開錠し、中に入ると壁に凭れかかって穂積の様子をじっと見ている。
 教団の建物は大きな洋館となっている。穂積が入れられているのは地下に設けられた牢だった。ほとんど拘置所の独房に近い。しかし意外と快適に感じられたのは事実で、今が夏ということがあるだろう。日差しのないこのフロアは、地上に比べれば幾分かひんやりとしていて、空調がなくとも十分寝起きができたのだ。
 ばしゃばしゃと簡単に洗顔をし、手早く顔の髭を剃り、歯磨きをする。壁に備え付けられた小さな鏡越しに、深桜里と目が合う。しばらくそのままでいると、深桜里はふっと薄く笑って視線を逸らす。

「“神童”形無しですね。仕事も遂行できないのなら大人しく食われてしまえばよかったのに」

 歯ブラシを洗い、両手で水を掬って口の中を濯いだ。鏡で念入りに綺麗になったかどうかのチェックをする。

「ほんと、警察もココも、上の奴が言うのは楽で羨ましいねえ」

 何度陰口を叩かれたか知れない。あれだけ神童ともてはやされていたのに、今の体たらくときたら、と。そんなものは、穂積には知ったことではない。ずっとあの神秘性を維持しているのも、それはそれで素晴らしいことではあると思うが、自分にはできることがもっとあった。ただ崇められるだけの存在に比べれば、今のこの立ち位置の何と生きやすいことか。だから穂積は、これでいい。失敗して牢に放り込まれようと、この組織は自分を手放しはしない。
 首にかけたタオルでぐいっと顔を拭うと、つかつかと深桜里に歩み寄る。こうして目の前に立つと、数十センチの身長差がある。深桜里からは完全に見上げる形、穂積からは見下ろす形になる。右の掌を開いて、深桜里の顔の目の前で止める。彼女の小さな顔は、穂積の掌で簡単に収まってしまいそうだ。


「みおちゃん、“神童形無し”でも俺はここには捨てられねえのよ。すごいでしょ、羨ましい?」

「それはね、この掌にちょっと力を込めるだけでみおちゃんを簡単に殺せる力があるからなんだよねえ」

「みおちゃんだけじゃなく、この屋敷の人間全員を、やろうと思えば俺は殺せちゃうの。俺はそれを昔ほんとうにやって、できんの、今も」

 
 記憶を持って今を生きていることが、最大の抑止力になることを穂積は知っている。神の気まぐれのために生きることを許された子供を、今も恐れているのだ。それが穂積の唯一で最大の誇り。今こうしてここで生きていること。手広く自由に歩き回ること。このフットワークの軽さ。


「奴らが本当に俺に罰を与えるなら、俺がここを抜ける時だろうな。でもその時は、生半可じゃないモンをくれると思うよ。羨ましい?」


 いいえ全然。
 深桜里はゆっくりと穂積に視線を合わせると、にっこりと微笑んだ。




 牢暮らしの休日とはいえ、用事があった。黒のネクタイを締め、夏用のライトグレーのスーツに身を包む。警察の先輩である佐伯みやびには、「お前それホストにしか見えねえ」と言われたが、どんなスーツを着ていても大概言われるので、似合ってるって意味か、とポジティブに解釈するようにしている。こうしてポジティブに考えるだけで、大分世界は平和だ。自分の精神状態は良好だ。教団幹部にもそれは伝わっているらしく、今日は見張りはつけられなかった。元より逃げるようなつもりはない。
 電車を乗り継ぎ、やってきたのは空木大学だった。まだ夏休み期間ということもあって学生の姿はまばらだが、その中でも一際人気のない場所に向かって、穂積は歩いた。まったく人気のない校舎の裏にあるベンチに腰掛け、一息ついて腕時計を見る。約束の時間は午後2時。今は少し早いくらいだが、腕時計に影が落ちたので顔を上げると、一人の女子学生が屈託のない笑顔で立っていた。

「すみません渡会さん、お待たせしてしまいましたか?」
「んーん、今来たとこだよ。みっちゃんはゼミ平気なの?」
「はい。ゼミっていっても、自主学習ですから。強制じゃないので、今日はもう終わらせました」

 嬉しそうに穂積のすぐ隣に腰かけたのは、先の事件で一度は精神を病んで入院した、妹尾倫子だった。一度捜査のために病院でカウンセリングの真似事をしてからというもの、事件後も精神科医かカウンセラーのように対話を求められることが度々あった。当初は恐怖のため、退院したくない、病院から出たくないと泣いていたが、地道に対話を続けてこうして学業に復帰できる程度まで回復した。俺割とすごくね? と思う穂積である。
 元々精神医学や心理学は専攻していたわけではない。教団のために使える知識を身に着けに行ったので、本来の専攻としては内科なのだが、外科も必要性があってそれなりに学んだ。精神医学や心理学はほとんど一般教養に近い気分で履修したのだが、案外役に立つものだ。

「新しい先生は? どう?」
「はい、まあ、一応やりたいことがあって安仁屋教授のゼミに入っていたっていうのはありますけど、でも、学ぼうと思えばできないことないですし、今の先生もとっても親身になってくださるので不自由はありません」

 担当教授が逮捕されたのだから、学生の衝撃は大きかっただろう。特にゼミは専門的分野を扱っているだりうから、教員が変われば本の読み方ひとつとっても変わってくる。
 倫子は取りあえず、心理学を学ぶということについて拒否反応が出なかったのは素直に喜ばしいことだ。真面目な学生が一人減るというのは社会にとっても損失になる。

「あー、そりゃ残念だなあ。それじゃあ俺新学期からお役御免になっちまうなあ。まあ、それがみっちゃんにとっては一番いいことなんだろうけど」

 このまま生きるなら、それが一番いい。すべてを忘れることはできないだろうけれど、本当は関わらなくてよかったのだから。彼女は優しさ故に損をした。
 すべてを知る自分からすれば、彼女のような存在はとても愚かだけれど、だからこそ誰にでも好かれるのはよくわかる。
 倫子の思い詰めるような表情から、噛みしめる唇からひしひしと伝わってくるその愚かさは、誰にでも好かれるだろう彼女だからこそ、今ここで漏らすものではない。
 意を決したような瞳が、穂積を捉える。

「あの、渡会さん、私――」


 ごめんねみっちゃん、言われなくても全部わかっちゃうんだよね、俺。


 右手の人差し指で倫子の額に触れる。きょとんとした倫子の表情を見ながら、彼女には聞こえない大きさで短い呪文を唱えると、倫子の瞳はいっぱいに見開かれ、そして全身の力がかくんと抜けた。
 それを隣に座ったまま支えると、そのまま彼女が目を覚ますまでずっと、待った。


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2016.04.24(Sun) | パロディ | cm(0) | tb(0) |

空挺都市パロ  過去編1




「桜井サン、空都での勤務決定おめでとーございます! 夕飯おごってください!」
「前後関係が意味不明だな。てめェにメシ奢るような義理はねえよ。つーかお前だって決まってんだろ、空都勤務」
「てへぺろ」
「気色悪ぃからやめろぶん殴るぞ」

 警邏隊本部の出口で待ち構えていた後輩――穂積の頭を軽く小突いて歩き出す。穂積は頭を押さえ、もう殴ってるじゃないスか、と笑った。
 名指しでの召集を受け、勤務前朝一番で本部に出向けば異動辞令が出たとのことで、拓海の制服のズボンのポケットには、もうくしゃくしゃに丸めた辞令の証書が突っ込まれている。普通の隊員なら飛び上がって喜ぶはずの辞令だろうが、拓海はあまり興味がなかった。そもそも、興味がないからこそ一番あの場所に遠いであろう警邏隊に所属することを選んだというのに。家を出て、籍を抜いても、名家の力は侮れないということだろう。

「えー、なんで喜ばないんスか桜井サン。俺なんか三男坊だし? こーやって警邏の仕事で多少緩いことしてても周りは大目に見てくれっし、その上空都行きまでお約束してくださるなんて、もう人生ぬるま湯っスよ。もっと喜んだ方がいいと思いますけどね」
「俺はてめェと違ってもう名家の人間じゃねえんだよ」
「けど直系ですよ。元とはいえ嫡男ですよ? 万が一のために保険かけんのは当たり前でしょ」

 穂積の言うことはもっともだ。三男の穂積でも大切に扱われるのだ。それは保険をかけているということ。家に何かがあった時にすぐ使えるように準備されている駒。こうして家の外の世界で自由な振りができているのも、家の中にいてまとめて何かに巻き込まれては取り返しがつかないからだろう。拓海の隣で大あくびをする穂積は、それをわかっていて自由を謳歌する。
 拓海が実家の芹沢家を飛び出したのは、三年前、22の時だ。芹沢家は、この都市の花すべてを牛耳る名家だ。栽培も、販売も、研究も、花に関わる芸術も、すべて権利を握るのは芹沢家だ。拓海は22年間、当主となるべく育てられた。幼い頃からあらゆる芸術の技能をその身に叩きこまれ、帝王学を刷り込まれ、空都に新設された国立大学に入学した。反吐が出そうなほどどうでもいい生活だったが、大学を卒業してすぐ反旗を翻し、家を飛び出した。拓海が大学を出る少し前に、弟が生まれたのである。どうせ同じ教育を施すのなら、当主になるのは自分でなくとも構わないはずだ。幸い、父はまだ若い。弟が育つまでなら、十分活躍できるはずだ。
 これだけの名家ならば、近いうちに必ず空都に移住することになる。拓海自身はあまり、平和な将来に興味もなければ執着するつもりもなかった。こんな思考を持つ自分があの家に生まれたのがそもそもの間違いだったのだと、そう思う。だから家を出て実家から勘当され、遠い分家筋の桜井家に籍を移してすぐに、空都での勤務はおよそ見込めないだろう警邏隊に入隊した。体格も大きく、体力もある自分にはうってつけの仕事だった。問題なので正義感があまりないことだったが、毎月生きるだけの金をもらえるならばどんな仕事だって構わなかった。それが結局このザマだ、監視が行き届きすぎている。

「まあ、空都行く前に北エリアに異動出たからな。そこで問題でも起こせばおじゃんになるだろ、この話も」
「は!? 北エリア!?」
「一年間北エリア常駐だ。来週からな」
「北って、刑務所あるし前科野郎の工場もあるし、繁華街だってこの世の欲とマニア性をすべて詰め込んだような、忙しいったらありゃしないとこじゃないすか。しかも常駐って、キチクすぎ」

 この底都はだいたい円状に広がっており、四つのエリアに分けられる。
 現在拓海と穂積が勤務するのは、主に東エリアだ。住むのは平民がほとんどで、底都の人口のほとんどはこのエリアに集中している。その上貧民街も郊外にあるため、自然と警邏隊の人数もここに集められているのだ。
 今二人が歩く本部は南エリアにある。研究施設やら都市機能を備える官公庁や本部がこのエリアに置かれ、空都へ向かう飛行船や、個人所有の飛空艇もこの南エリアにある空港からしか飛ぶことができない。
 西エリアには貴族街がある。西エリアの警邏は基本的に人間が決まっている。貴族たちとぐずぐず癒着している年寄の幹部しか、そのエリアにはいない。
 そして北エリア。刑務所が置かれ、囚人たちや前科者たちが従事する工場がある。自然とここにも警邏の人数は厚くなる。
 普段、勤務するエリアは特別決まってはいない。シフトが与えられており、その時々で北へ行ったり南で空港の警備に当たったりもしている。常駐というのはなかなかある辞令ではない。

「あー、でも。北エリアなんて手荒なことやってもそうそう問題にならないっしょ。それこそ、人殺すくらいのことしないと」
「……だよな」

 そもそもエリア住人の半数以上が犯罪に関わった人間だ。ほとんど無法地帯と化しているそこに配備される警邏隊の人間は、そんな無法地帯に秩序をつくることを求められる。ゆえに、他のエリアでは即刻暴力や職権乱用として訴えられそうな行動も、北エリアに限ってはあまり規制が厳しくない。――無論、殺害に至れば追及は免れられないだろうが、それでも他エリアでの処分に比べれば寛容な措置が取られるだろう。そんなことをするつもりなどないけれど、これで自分の空都行きはほぼ確実となってしまいそうだ。穂積は知り合いは多い方がいいとにやにやしているが、拓海からしてみれば割とどうでもいい。

「あ、俺今日夜勤で空港警備なんで! 桜井さんは?」
「これから貧民街のパトロールだ。列車乗る」
「じゃあここで別々っスねー。今度メシ奢ってくださいよ?」
「いつか覚えてたらな」
「俺こういうの忘れないタチなんで。じゃ、お疲れ様っしたー!」

 根っからの後輩気質の穂積は軽くお辞儀をして、空港へ向かう大通りへ走って行った。拓海もまた、軽く手を振ってから、駅へと急ぐ。




 底都はおよそ円状の地形をしている。4つのエリアを結ぶ公的な交通手段は列車だ。環状の線路が数本通っており、時計回りと反時計回りに数分感覚で運行している。拓海は南エリアの駅から反時計回りの列車に乗ると、東エリアへと向かった。平民街の風景は、特別豪奢な建物などもなく平和なものである。見慣れた風景を車窓から眺め、20分ほどの乗車を終えると目的地である、東エリアの中央駅で降りた。
 今日の予定は貧民街のパトロール。貧民街はエリアの中央からはかなり離れているので、本当は五つほど先の駅で降りて屯所に行くのが望ましい。しかし、今日は辞令があったため、東エリアにある支部に顔を出さねばならなかった。その足ですぐに支部に寄ると、直属の上長に辞令の報告を上げると、再び中央駅へ向かい、貧民街にほど近い駅で下車した。
 貧民街はその名の通り、貧しい者たちが多く住むエリアである。一部よからぬ仕事をする貴族や平民がいないわけではないが、衛生的にも秩序的にもあまりよろしくないエリアのため、その数はそう多いものではない。住民たちのほとんどは平民の小間使いなどで日銭を稼いで、物々交換にも近い市場が開いたりしている。平民の市場とは活気が違うが、ここは助け合いのネットワークで成立している。貧民街のパトロールをする警邏隊は、貧民街の入口近くにある屯所に詰めている。勤務につくとまず拓海は、屯所の陰にいつもいる少女に声を掛けた。

「よう、今日も稼いでるか」
「あんたたちみたいなケチくさい警邏相手に稼げるわけないでしょ」
「お前、警邏連中には何故かウケいいけどな」
「嘘ばっかり」

 嘘じゃない。という言葉は、取りあえず飲み込んでおいた。しかし拓海の言葉は真実である。
 みすぼらしい布のワンピースは泥のシミが抜けきっておらず、ところどころほつれも見られる。少女の白い肌も、汚れや傷が目立つ。
 拓海はこの少女を少なからず気に入っていた。性格はこの年齢の少女らしい勝気なものだが、年齢に見合わない、美しい容姿の持ち主だったためだ。長い黒髪はこの環境にいるためか綺麗に保つことはできていないけれど、きっときちんと手入れをすれば見違えるに違いない。透き通る白い肌に、よく映える薄い青の瞳。人形のような美しさを持つその少女は、この劣悪な環境で、毎日靴磨きをしていた。こうして警邏隊の屯所の陰で、隊員の靴を磨いて金をもらうことが目的だ。拓海が警邏隊に所属した頃からここにいるのだから、もう3年以上はここで仕事をしているのだろう。出会ったばかりの頃、少女に「平民街で働かないのか」と聞いたことがあった。すると少女は、あたしもそう思う、と返す。更に聞けば、平民街に行けば金は貰えるかもしれないが、何をされるかわかったものではないから絶対にこの屯所の前を動くな、と近所の人間に釘を刺されたらしい。確かに、この美しさの少女がいれば、しょうもないことを考えるのはきっと平民に限ったことではないだろう。警邏の人間ですら、金を積んで彼女を囲いたいと言う輩が現れているのだから。
 木箱に足を載せると、いつも通り彼女は拓海の革靴を磨く。靴墨でその指が汚れてしまうのを、いつも少し申し訳なく思っている。
 少女の名前は紗央という。拓海より9つ年下で、両親はいないらしい。代わりに貧民街の住民に大層可愛がられているし、本人も周りを肉親と思って付き合っているようだ。この場所は貧民街ではあるが、そこまで悲惨ではない。平民街よりも人情味には富んでいるだろうと拓海は思っていた。

「なあ、紗央」
「何よ」
「来週から俺北エリア常勤になった。もうしばらく来られないからな」
「ふーん。北エリアって、何やらかしたのよあんた」
「さあ、何だろうな」

 特別気にした様子もなく、紗央が靴磨きを終える。初めて会った時は紗央自身も仕事を始めたばかりだったのか、とても金を払えるレベルではなかったけれど、今では随分とこの仕事も板についている。熱をあげている隊員がいるうちに、搾り取れるだけ搾り取ればいいと思う。

「はい、おしまい。文句ある?」
「ない。ほらよ、今日の分」

 ポケットから紙幣を5枚ほど取り出して押し付けると、紗央がその青い瞳を見開いてぎょっとした表情をつくる。

「こんなにもらえないわよ! あんた馬鹿にしてんでしょ!?」
「このエリアにはもう来ないからな。今日で最後だから餞別だ」
「餞別ってあんたがあたしにやるもんじゃないでしょうが」
「いいから黙ってとっとけ。駄賃だと思え」
「で、でも、」

 確かに、いつもは硬貨で渡している。紗央が決めた価格がコイン3枚分だからだ。価格としては相場であろう。その分に少し上乗せする者もいれば、きっかりその分しか払わない者もいる。上乗せするといってもコイン1枚か2枚分程度、多くても紙幣1枚くらいだ。紙幣5枚分の働きなどしていない、と紗央が主張するのは正しい。貧民街で情を持つことは正しくない、と拓海はわかっている。わかっていても、この美しい少女に何かしてやれることがあるとすれば多少の金を与えることくらいだ。それだって、彼女が裕福になるほどは与えてやれないし、争いのもとになってしまっては元も子もない。拓海は一応、彼女よりは長く生きた大人なので、そんな汚い事情は言葉にはしないけれども。

「……あんた、早死にしそうね」
「おい、その言いぐさはねえだろう」
「うるさいっ、貧乏人にこんなことして、北エリアでいつか刺されても知らないんだから!」

 目の前の少女は、語気を荒げて怒鳴った。彼女の頬がふわりと赤く染まったので、その怒鳴り声が精いっぱいの照れ隠しであることは拓海にも手に取るようにわかってしまった。なんだ顔以外にも可愛いところあるじゃねえかと思いつつ、拓海は少女の頭をぽんぽんと撫でる。
 
「心配して頂いて光栄だ」
「心配なんかしてない!」
「寂しいからって北エリア来たりすんじゃねえぞ」
「誰が行くか馬鹿!」

 拓海の目線のずっと下で、唸りながら青い瞳が拓海を射抜く。この瞳を見られるのも今日で最後かと感慨深く思いながら、紗央の黒髪をわしゃわしゃとかき回した。


2013.06.01(Sat) | パロディ | cm(0) | tb(0) |

天空への階段



「あら? あんた初めて見る顔ね。新入り?」

 色あせた暖簾をくぐって店内に足を踏み入れた拓海を一目見ると、彼女は綺麗なアイスブルーの瞳をまるくして問いかけた。昼時とあって、狭い店内は休憩中の男たちでいっぱいだ。しかし拓海は知っているし、周りの男たちもわかっている。拓海の席は、いつだって空いている。彼女が作業をする厨房が一番よく見えるカウンター席。その一番左端。この工場の作業員ならば全員、その席に座ってはいけないと理解していた。
 拓海は薄く笑う。普段誰にも見せないような、青年のような爽やかな笑顔を、一日に一度だけ、この昼時にだけ、彼女に捧げる。

「ああ、そうだ。ここのメシは地上で一番美味くて、えらく美人の店主がひとりで切り盛りしてるって聞いてな」
「褒めたってご飯以外は出ないわよ」
「そいつは残念。あんたの顔、好みなのにな」
「余程の面食いね、あんた」
「自分で言うんじゃあ返す言葉もねェな」

 これによく似た会話を拓海と彼女は毎日する。彼女は拓海を見ると、毎日言う。あんた初めて見る顔ね。拓海は毎日答える。ああ、そうだ。
 店内で定食を掻き込む作業員たちは、沈痛な面持ちでその様子を見ていた。拓海は彼らにとって頼れるリーダーなのだ。工場勤めが長く、男らしいあっさりした性格で同僚は皆拓海を慕っていた。前科者だからといって一生ここに縛り付けられる理由などない。適度に金が貯まれば皆別の仕事を求めてここを出ていく。こんなに長くここで頑張っている人が、それゆえにこんな悲しい目に遭うなんて。
 作業員たちが意図的に空けていたカウンター席に座ると、彼はメニューも開かずに日替わり定食を頼んだ。彼女はその声に「はいはい」と答える。それから、ふと何かに気付いたかのように振り向く。

「……ねえ、名前、なんていうの?」
「メシ以外は出さないんじゃなかったのか?」
「そうなんだけど。新入りさんなら名前くらい覚えておかないと」

 それが嘘であることも、皆知っている。拓海も知っている。これも毎日、繰り返されることだからだ。

「桜井 拓海」
「さくらい? あたしと同じ苗字」
「そうなのか。奇遇だな」
「あたしは紗央っていうの。桜井 紗央」

 その苗字は紛れもなく、彼から与えられたものなのに、屈託なく笑う彼女にその記憶はない。工場から漏れる機械音をバックに、彼女は忙しなく狭い店内を走り回る。濡れたような長い黒髪がその度に揺れて、心底楽しそうにアイスブルーの瞳を細めて笑う。拓海はその様子を毎日見ている。もう二度と愛の言葉を交わすことはないけれど、それでも、拓海は世界で一番、彼女のことを愛していた。
 拓海が店に来ると、それまで店にいた拓海の同僚たちは掻き込むようにして食事を終える。そうして人がまばらになった店内で拓海はゆっくり、しかし手早く食事を終えると立ち上がった。いつも同じものを注文しているから、料金はいつだって同じワンコイン。その料金だって、この店を始める時に彼女から相談を受けて、拓海が助言して決めたものだ。
 また来てちょうだいね、などと残酷な言葉を吐きながら、彼女は拓海の一番好きな表情を作る。いつまでもその笑顔は、少女のころのようにあどけない。

「指輪、してんだな。人のモンなのか」
「え?」

 来た時と同じように暖簾をくぐって外に出る直前、拓海は彼女に声を掛ける。それで初めて彼女は自らの手元に視線を向ける。
 白磁のように透き通った肌は毎日の水仕事で少し荒れてはいるが、保湿はずっと続けているらしい。左手の薬指の根本に光る銀色の輪。頂点に彼女の瞳と同じ色の淡い青色が一粒輝いている。

「……あれ、あたしいつの間に」
「よく似合ってる」
「……ありがとう」

 その優しい声を背に、拓海は店を後にした。




 その晩、拓海が路地裏の部屋に戻ると、部屋の隅で娘が小さく膝を抱えていた。電気はつけておらず、真っ暗だ。室内灯のスイッチを入れると小さな電球が仕事を始める。
 少女はあまり綺麗とは言えない、ゆったりした白いシャツに色あせた茶色のロングスカート姿だった。ただでさえ小柄なのに、膝を抱えて座っているからその小ささは際立って見えた。少女の傍らには小さなボストンバッグ。そこに少女のこれまでとこれからのすべてが詰め込まれている。

「いつまで拗ねてるんだ、みのり」

 少女の名を呼んで、拓海は彼女と視線を合わせるようにしゃがみこむ。じとりと恨みに満ちた視線で少女――みのりは拓海を見つめる。右の瞳は拓海の黒、左の瞳は彼女の母親譲りの、宝石のように輝くアイスブルー。烏の羽のように黒くて艶のある髪も、この透き通る白い肌も、その顔立ちも、母親譲りだ。数年すれば母のように目の覚めるような美人になるだろう。
 みのりは一度は上げた視線を再び下げた。だって、と消え入るような声。

「……あたしがいなくなったら、お父さんひとりぼっちになっちゃう」

 色の違う瞳に、大粒の涙を湛えて、みのりは絞り出すように言った。拓海にはそれだけで十分だった。みのりがいるだけで、それだけで、確かに自分と紗央との間には形に残るような感情があったのだとわかる。その存在をも紗央が忘れているとしても、みのりが生きている限りその証拠が消えてなくなることはない。

「いいんだよ、母さんがいるから」
「でも覚えてない」
「覚えてなくても、父さんにとっては母さんは母さんだ」

 拓海の言葉に、ついにみのりは泣き出した。この問答も何日続けたことだろう。みのりは毎日毎日目を腫らすほど泣く。どこにそんなに水分があるんだと思うくらいに。しかし拓海もそれを止めたりできるはずもなかった。この幼い娘が自分の代わりに号泣しているのだと思うと、ただ強く抱きしめて、その涙が自然に止まるまで待つことしかできない。
 みのりは今晩、空都に行く。海に沈みゆくこの大地から、人類の科学が生み出した希望の箱舟。そこではエリートの研究者や貴族たちがこぞって自分の居場所を作っている。本来ならば前科者の娘が切符をつかめるはずもなかった。拓海は奔走した。使えるものはすべて使った。このままここで、娘を危険に晒しているわけにはいかない。もとい、このままここにいれば自分もいつ紗央を忘れるかわからない。それ以上に、みのりが自分を忘れてしまった時のことを考えることが、恐ろしかった。
 控えめにドアがノックされる。腕の時計を見れば約束の時間の十分前だった。薄く扉を開けると、真っ直ぐな瞳の青年が立っていた。思わず目を見開いて、それからドアを大きく開く。

「……兄様。お迎えに上がりました」
「……まさか直々に来て頂けるとは」
「俺以外では下手な中傷の的になるでしょうから」

 この都市の花のすべてを牛耳る芹沢家。拓海を兄と呼ぶこの青年は、拓海と二十以上も年が違う、実の弟であった。今はもう拓海は芹沢から縁を切られているため、彼が後継者であることは間違いない。本来ならば立場が違いすぎる。芹沢の嫡男が、こんな治安の悪い北エリアを単独で歩いていていいはずはないのだ。

「みのり」

 まだ部屋の隅でうずくまる娘に、拓海は声を掛ける。
 みのりは動こうとしない。きゅっと唇を一文字に結んで、親の仇を見るような目でドアの向こうの青年を睨みつける。

「兄様に似てますね」
「そうか? 母親そっくりだぞ」
「顔立ちはそうなんでしょうね。けどあの目の強さは芹沢譲りでしょう」

 そう言われると、確かに娘の目力は今目の前にいる弟と似通ったものがあるような気もする。
 母親の細胞から分裂してできたような娘だが、それでも確かに自分の血も通っているのだと実感する。
 名前を呼び、みのりが無視する。そんなことをどれだけ繰り返しただろうか。十分も続けると、そろそろ実力行使に出なければと拓海が思ったところで、部屋の中にみのりより少し背の高い少女が入り込んだ。
 弟が「つばき」と声を掛けたが、彼女はそれを無視する。

「……行きましょう、大和様。あまり長居しては明日の予定に支障が出ます」
「……そうだな」

 つばきと呼ばれた少女はみのりの腕を掴んで立ち上がらせる。嫌がるみのりの声など聞いてはくれない。
 そのままみのりを強く引っ張り、抵抗できないと判断したのかみのりも足元の荷物を持ち上げた。正直、助かったと思った。拓海だけでは、結局ぐずぐずと送り出せなかったかもしれない。
 年はみのりと同じくらいだろうか。少女の瞳は強く、前を向いている。

「大和、この子は」
「椿といいます。みのりと同い年です。うちの分家の娘で、今は空都の研究室で海洋調査の助手をしています」
「優秀だな」

 拓海も部屋の外に出た。みのりを引きずって、暗い路地に立ち尽くす椿の目の前に立つと、軽く膝を曲げて彼女と視線を合わせる。黒髪も、大きな黒い瞳も、夜に綺麗に溶け込んでいる。暗いところでは顔はしっかり見えないが、きっと器量の良い子なのだろう。

「……こいつは両親とも馬鹿だからな、可哀想なくらい頭は悪い。母親みたいに料理だとか家事ができるわけでもねえ。ただ運動能力はそこらの奴には絶対負けない。使えねえかもしれないが、……よろしく頼む」

 少し冷たくも見える瞳をほんの少し伏せて、椿はこくりとひとつ頷いた。

「……芹沢の風当りは強いです。私にできることなら、微力ながらお手伝い致します」
「……頼りにしてる。みのりと仲良くしてやってくれ」
「人付き合いは苦手なので、それはどれほど期待に沿えるかわかりませんが」

 椿が大真面目にそう言うと、吹き出したのは大和だった。「お前じゃそうだよな」と笑いながらつぶやくと、拓海に向き直って軽く礼をする。

「俺が責任もって預かります。心配しないでください。しょっちゅうこっちに下りてくるんで、顔も出しますから」
「……俺のことなんか知らないも同然なのに、芹沢に楯突く真似させて、……すまん。感謝する」
「いえ、……あの生活をしていて、そこから出ようとするなんて、それができるなんて、俺は尊敬してるんです。俺もあの家を飛び出したいと思ったことがないわけではないですから」

 では、と大和が踵を返す。みのりの腕を掴んだままの椿が路地を歩き出す。みのりは数歩それに着いて歩くと、急に椿の腕を振り払って、拓海に向かって駈け出した。拓海の腰に手を回して抱き着いたみのりは先ほどまでと同じようにまた泣き出して、ぐずぐずと涙を拓海の服に吸わせている。

「おとーさん」
「なんだ」
「忘れちゃやだからね」
「……忘れねえよ」
「ぜったい!? 絶対に!?」

 両手でみのりの頬を覆う。両の親指でぐっと涙を拭ってから、その小さな体を抱きしめてやる。
 忘れるわけがない。この子が母親の中に宿ったことを知った日のことも、この子が生まれた秋の夜のことも、初めて歩いた日も、しゃべった日も、何もかも忘れるわけがない。拓海にはその自信がある。絶対に揺らがぬ自信がある。

「……お前は二番手だからな。お前のことは絶対忘れねえ」
「おかあさんのことも忘れちゃやだああ」
「お前が忘れなきゃいい。俺はここから離れられねえ。何があるかもわからん。だからお前はずっと覚えてろ。父さんと母さんから生まれたことを、お前は絶対に忘れるな」

 腕の中の娘が、こくこくと小さく頷く。何度もうなずく。ぼろぼろと涙を零しながら。
 この子が生まれて十五年。十分だ、と思う。ここまで愛せる存在にふたつも出会えたのだから、この先何があっても悔いがあるということはないだろう。あとは、みのりさえ幸せに生きてくれれば。




「幸せになれ、みのり」





2013.05.21(Tue) | パロディ | cm(0) | tb(0) |

賽は投げられた
『聞いた? A組の水城、新しい彼女できたらしいよ』
『どうせまた別の学校の子なんでしょー? 毎回すっごい噂になるよねえ』
『それがさあ、今付き合ってるのはうちの学校の女子なんだって』
『ほんとに? 水城と付き合えるほどかわいい子なんてそんなにいたっけ?』
『聞いた話なんだけど、罰ゲームらしいよー』
『うわー、やっぱ顔がアレだとやることえげつないなあ。彼女かわいそー』

 放課後、そんな雑音ばかりの廊下をかつかつと歩く。ざわざわとやかましい奴らは俺が歩けばさっと道を開けてくれる。そいつはありがたいが、それよりもその雑音をどうにかしてほしい。
 俺はこの学校の女子と付き合っちゃいけねえのかっつんだよ、しかもそんな可愛い子としか付き合えないってどんだけ俺のハードル上げてくれてんだよこいつら。
 つーか。つーか、つーか、つーか!!

(どこで飛躍してんだその噂ッ、告ったの俺だし、第一罰ゲームじゃねぇし!!!!)

 罰ゲーム罰ゲームと言われているのが腹が立つ。確かにきっかけは罰ゲームで間違ってはいないが、俺の罰ゲームではなかったし、落ち着いた時俺は心底ほっとしたんだ。それがこのザマだ、ほんと、あいつにも申し訳ないことしてると思う。後で謝んないとな、心にもないこと言われてるだろうし。
 食堂の隅にある丸テーブル。そこに腰かけて本を開く女生徒。腰近くまである長い髪はこげ茶色に染められ、綺麗に波打っている。前髪は、最近長めだ。ピンで留めるからそんなに気にならないのだと言っていた。眼鏡は最近たまにかけるのだという。度はあまり強くないらしいから、ファッションの一部でもあるんだろう。前髪を軽く留めるピンと同じ、クリアレッドの縁の眼鏡。レンズの向こうに見えるまつ毛は、実は結構長い。
 彼女は目を伏せて、静かに本を読んでいた。本っつっても、多分参考書か教科書か何かだ。更に近づけばわかる、それは古文の参考書だった。ま、文系だしな。

「お待たせ、葉山」

 言いながら目の前に腰を下ろすと、「わ」と声を上げて葉山は頭を上げる。それから慌てて髪を手櫛で整え始めた。

「は、早いね! 水城のことだからもっとかかると思ってたっ」
「そう思われてんだろうなと思って早めに切り上げた。あんま待たせんのも悪いし」
「気にしなくてよかったのに」
「いーの。聞き始めたらキリないんだ。これくらいがちょうどいいよ、せんせーもやっと解放されたー、って顔してたし」
「それは想像つくかも」
「勉強熱心な生徒への態度としちゃ適切じゃないよなあ」
「水城のは生徒のレベル超えちゃってるの。自覚ナシ?」

 ぷっと吹き出す葉山につられて、俺も笑う。なんつーか、こう、友達の延長で付き合ってるって感覚はこれまで経験したことがないものだったので、新鮮でもあるし、ものすごく居心地もいい。もっとも、今のところこの状況に落ち着いているのは俺だけなんだろう。葉山は俺と付き合ってるって周りに知られてから、いろいろ陰で言われてるみたいだ。俺が納得できる理由は、今んとこ、聞いたことないけど。
 そんなことを思いながら、目で葉山を追っていた。視線に気づいたらしい葉山は、照れたのか参考書で顔を半分隠すと、「なに?」と小さな声で聞いてくる。

「んーん、なんにも。用意できたら、行こ?」

 なんですか、俺ってこんな優しい声出んのな。って、自分でちょっとだけ意外に思ったりしている。 




 試験前で英語が不安だと葉山が言った。
 それなら見てやるよと言ったのは俺だ。
 ついでだったので、親いないしうちに来る? と言ったのも俺だ。
 学校より自分の部屋の方が落ち着く、という意味でその時は言ったのだが、俺の言葉を聞いた時の葉山はひどく驚いていて、きょろきょろ周りを見て、話しかけられているのが自分だけであると十分に確認した上で、更に悩んでいた。付き合い始めて一か月弱、あれって結構爆弾だったのか、と気づいたのはその日寝ようと部屋の電気を消した瞬間だった。
 学校の正門を出て、坂を下る。右隣に葉山。別に珍しくもない構図だけど、見え方が今までと違うのは確かだった。

「水城のおうちって学校から近いんだ」
「近いよ。歩いて通えるし」
「野島くんは遠いのによく頑張るよねー」
「……ほんと、だよな。片道二時間近く掛かんのに朝練とかさ。よく留年しないでこの学校のレベルについてってるなと思う」

 道中の会話はくだらない。A組のこと、C組のこと、授業のこと、先生のこと、部活のこと。いつも通りってやつだ。付き合い始めたからって学生同士だし、急に会話が甘くなるなんてことはない。だからたまに意識が希薄になる。不安とか、そういうんじゃなくて、どこからが現実なのか、よくわからなくなる。
 本当は何度だって確認したい。電話でもメールでも、直接でも、俺のこと好き? って問いかけて、うん、って笑って返して欲しい。それが女々しいことで葉山に対して失礼なことだってわかるから押し殺すけど、そういう感情はゼロじゃない。葉山は、堂々とした奴だから。全部を普通に頑張ってるから、そこが俺にはすげえきらきらして見える。平凡かもしれないけど、それを恥じることも特別に誇ることもない。自分であることに堂々としている。
 ローファーの底がアスファルトを叩く。その音が、二人分響く。別段近くもなく、遠くもない距離。これでいいのか、俺。

(いいわけねぇだろ、俺だって普通に男子高校生だっつの)

 不安なのかと聞かれたら首を横に振る。じゃあどうしてここから動けないのか。俺はやっぱり負い目があるのか。でも俺は、正面からきちんと勝負したはずだ。それは間違ってない。絶対に、間違ってなんかいない。俺は、先手を打っただけだ。
 ……不安なんじゃない。ただ緊張しているだけだ。先手を打てても、あいつはきっと追ってくる。あいつがそういう奴だって、一番よく知ってるのはほかの誰でもなく、俺じゃないか。

「水城?」

 まだ見慣れない眼鏡姿の葉山が、目をきょとんと丸くさせて俺を見上げる。うん、いいんだ、こんなもやもやは、よくあることだ、そうだろ?

「なに見てんの。そんなに俺かっこいい?」
「ぷ、なにそれ」
「てっきり見惚れてるのかと思って」
「否定はしないでおくよ。物憂げな感じも変に似合うからね、水城」
「それこそなんだよ。わけわかんねえ」

 ――きっかけは、本当に些細なことだった。
 ヤマトの家の離れで、俺とヤマトと慎吾と都筑とで集まってポーカーで一勝負。ビリが一位の言うことを何でも聞く、っていうよくある罰ゲームを設定して、いざスタート。ポーカーフェイスなんて気取れるはずもなく、ルールにもギャンブルにも疎いシンゴが負けるのなんてほとんどわかりきった話で、勝てると信じてたのは当の本人くらいなもんだった。俺は知らなかったが、ヤマトと都筑はどうやら慎吾を負けさせるべく手を組んでいたらしく、一位はヤマトだった。
 勝者たるヤマトが敗者である慎吾に命じたのは、『3-Cの葉山ルミに告白してくること』だった。
 ……そんなの、罰ゲームでもなんでもない。慎吾の背中を押しているにすぎなかった。慎吾が葉山に好意を寄せているであろうことは、俺だって知っていた。どうやら球技大会の関連で何度かパスの時やドリブルのフォームをチェックしたことがあったらしい。葉山センパイ、いいっスよね。やわらかな表情と声で、慎吾は俺にそう言ったことがあった。わかりやすい慎吾のことだから、クラスメイトの都筑に相談することもあったのかもしれない。都筑が面白がってヤマトに報告をしたのかもしれない。ヤマトと都筑からすれば、成功しても失敗しても笑い話のネタくらいにしかならないが、俺は、どうしてもそうはいかなかった。
 越されてはならない、と。慎吾が先に口にすれば、それはきっと成就してしまうから。
 知っているんだ、葉山に今彼氏がいないこと。野島くんって大型犬みたい、一緒にいたら絶対飽きないよね。と楽しそうに話していたこと。
 越されてはならない。俺にはわかる。慎吾は“必ず掴む”男だ。だから、先を越されることだけは、あってはならない。いつから慎吾が葉山を見ていたのかは、正確なところまではわからないけれど、それでも俺の方が長く葉山を見てきた。今まで見ているだけでよかったはずなのに、慎吾の顔がちらついた瞬間に、手元に置かなければと心が焦りだす。
 葉山に俺から告白したのは、その日、ヤマトの屋敷から帰る途中だった。合唱部の練習で遅くまで残っていた葉山と、校門でばったり遭遇したのだ。幸いなことに慎吾は妹からの電話があって一足早く帰宅していた。焦りと、嫉妬、いろんな感情がごちゃごちゃになる。見ているだけでよかった、その頃の純粋な気持ちを見失う程度には追い詰められていた。

 ――なあ葉山、俺と付き合わない?

 その時の俺の声は、どうだっただろう。震えていただろうか、真っ直ぐ通っていただろうか。

 ――遊びなんかじゃなくて、マジで。

 その時の葉山の顔は、暗がりでよく見えなくて、けど、「あたしなんかでいいの?」という小さな声は確かに聞こえた。
 葉山がいい。お前じゃなきゃ嫌だ。言葉にしようとすればするほどこんがらがる気持ちを、俺はどう伝えたんだろう。余程焦っていたのか、その頃の記憶はひどくおぼろげだ。
 これが最善のはずなのに、胸につっかえるこの気持ちはなんだろう。どうして、隣にいるはずの、一番大事な人に距離を感じるんだろう。




 あれから慎吾とはなんとなく顔を合わせづらくて、部活に顔を出すのも気が引けていた。俺と葉山が付き合うってなった時、「横取りたぁ大人気ないねぇ」と言ったのはヤマトだけだった。俺はその言葉に反論することも肯定することもできなかった。答えなんて出なかった。

『……軽蔑するか?』

 ただそれだけ問いかければ、ヤマトはゆっくりと首を横に振った。

『別に。いーんじゃね? 葉山がOK出したんなら、野島が無駄に傷つくこともなかったってことだろ。特別好きな奴いないのに相手が水城だからって理由だけでOKするような奴じゃないしな、あいつ』

 ヤマトの言葉に俺は頷いた。葉山がこれでいいと言った。俺を選んでくれた。なのに、ヤマトの言葉が真実だと思いたいのに、毎日ゆっくり押しつぶされるような感覚に襲われる。俺は葉山の普通の女の子なところが気に入っていて、好きで、でも、普通の女の子って、どういうことなんだろう。
 焦りすぎて、不安が募って、目の前の理由すらも見えなくなる。

「水城、どうしたの?」

 不意に声をかけられる。はっとして声の方を向けば、困った顔の葉山がそこにいた。ここは俺の部屋だ。小さなテーブルに参考書を広げ、二人並んで床に腰を落ち着けている。ああ、そうだ。葉山の勉強、見てやるんだった。

「わかんないとこに出くわした?」
「んー、この問題集くらいなら平気そう。水城は、……これくらいなら当然だよね」
「まあな」
 
 葉山は、俺が普段何をして、どうしているから今があるのか知っている数少ない相手だ。バスケも、勉強も、俺が人並み以上に練習だったり復習だったりしているのを知っている。だから俺は安心する。葉山の前では楽な自分でいられる。
 でも、まだ葉山だって知らないこともあるだろう。たとえば、どれだけの努力をしても俺が自信を持てないということとか。今もそうして、慎吾がいつかお前をかっさらうんじゃないかと気が気じゃないこととか。俺だって知らなかった、自分がここまで女々しくて弱くて、こんなにも独占欲強い人間だったなんて。

「……今まで怖くて聞けなかったんだけど、」

 葉山がそう切り出す。精一杯明るく振る舞おうとしているが、声のトーンは明らかに落ちていて、覇気がない。
 ちらりと俺の目を見てから、ふいと視線を逸らす。

「……やっぱり、罰ゲーム、なの?」

 ぽつりと呟かれた言葉に戦慄する。
 罰ゲーム。何が。俺とお前が付き合っていることが? 俺がお前に告白したことが?
 葉山は、しっかりしている。堂々としている。本当のことしか受け入れない。そういう奴だ。
 でも、もしかしたら、俺が思うよりずっとずっと繊細で、心無い奴らの陰口にも人一倍耳を澄まして、そして傷ついたのかもしれない。
 ちがう、と大きな声で言おうとしたのに何故か声は掠れて床に落ちた。更に葉山が続ける。

「あたしはいいの。もしこれが水城の罰ゲームなんだとしても、水城と付き合えるなんて普通の子じゃできないもん。ちょっと卑怯だけど、水城と付き合えるなら、って、あたしはそう思ってるんだよ」

 でも、と葉山は笑った。

「でも、水城はそういうの、気にしちゃうじゃない。フェアとかアンフェアとか、人一倍気にしちゃうの、わかるから。……だから、最近様子おかしかったのかなって」 

 それは俺が考えてもいなかった言葉だった。俺は、これが罰ゲームでもたらされた結果でないことを知っているから。だから、俺はその陰口については葉山に申し訳ないと思うだけで特別気にすることはない。けれど、葉山の理解する“水城 流風”があまりにも正しくて、驚いた。そのことをずっと気にしていてくれたことは、素直に嬉しいと感じる。
 俺が気にしているのは、そんなことじゃない。他の誰の陰口でも気にしないで過ごすことはできるけれど、俺にとって、この存在は大きすぎて、未知数で、だからこそ恐怖感が拭えない。
 俺は葉山が普通の女の子だから、好ましく感じる。けど、普通ってどんなんだ?

「………葉山、もし、……俺がお前に告白したあの日、俺より前に、割と一緒にいて楽しいと思える男子から告白されてたら、どうした?」

 普通の女の子だから、もしそんな状況になったら、きっと葉山は、慎吾を選んだだろうと思う。それは、葉山が“普通の女の子”だからだ。これは葉山を馬鹿にしてるのでも、俺の自惚れなんかでもなく、葉山にとって俺は、そういう意味での普通とはかけ離れたところにいる。それを俺が自覚しているから、わかることだ。

「……なんで、そんな話するの?」
「そうなってたかもしれないから。……少しでも遅れたら俺に勝ち目ないってわかってたから、先手打った。負けんの嫌いだから、そうした」

 負けたくなかった。慎吾にだけは、負けたくなかった。
 どう言葉にしたって伝わらないだろうけれど、俺にはその事実を口にすることしかできない。

「葉山がそいつと付き合ったら、って思ったら、黙ってなんていられなかったんだ」

 俺と目が合って、それからすぐ逸らされた。視線のやり場がないみたいで、軽く俯いたその顔はほんのりと赤く染まっている。俺がそうさせてる。俺の言葉で、動揺してる。それを間近で見られるのが嬉しい。

「……罰ゲームなんかじゃないよ、葉山。俺が、葉山のこと好きだから、言いたくて言った。それだけなんだから、もっと堂々としてなきゃダメだ、俺たち」

 堂々としていなきゃ、ダメだ。そうじゃなきゃ、俺はまだ不安だから。もっと自分に自信を持たなきゃダメだ。それと、もっともっと葉山に好きでいてもらえる努力をしなきゃダメだ。
 気持ちだけじゃダメなんだ、慎吾は“必ず掴む”から。慎吾はいろんなものを引き寄せる力を持ってる。そういう奴だ、って俺は知ってる。
 知ってるからこそ、俺にできることは自信持って堂々としていること。堂々と葉山を好きでいることしか、できない。
 葉山は俺の言葉にぷっと吹き出して、軽く眼鏡の下の目じりを拭った。涙のようだった。

「よもや水城大先生に好きって言ってもらえる日が来るとは。生きててよかったぁ」
「なんだよそれ。茶化してんの?」
「ちがうちがう。……嬉しいんだよ、すっごく」
「本当かねえ」
「拗ねないでよ、もう」

 葉山が軽く俺の肩を叩く。その手に触れる。驚いたらしい葉山は一瞬だけ指先をこわばらせた。軽くきゅっと握ると、すぐに緊張を解いてくれる。
 えへへ、と少し照れくさそうに笑うその表情を、俺はすごくかわいいと思うし、見ていてほっとする。俺、安心してんだな。っていうのがすぐにわかる。葉山はそういう空気を持ってる。隣にいることに、少しの違和感も覚えさせないような、そんな空気。

(――俺は、)

 葉山の額に唇を寄せて、それから、額と額を合わせる。自然と視線が合う。まだ見慣れない眼鏡の向こうの瞳が、俺を捉えているのがわかる。瞳が少し戸惑って揺れて、それから、力を抜いて瞼をゆっくりと閉じた。

(――俺は、負けないからな、慎吾)

 本当に触れるだけのキスで、この上なく満足してしまった自分に気づいた。これが優越感という奴なのかと納得した。





 日が暮れて、葉山を駅まで送り届け、歩いて自宅へ戻る途中、会いたくない奴に会ってしまった。
 校名入りのでかいスポーツバッグを肩にかけた、ごつい男子高校生。俺のよく知る男、たぶん、俺の一生のライバル。慎吾。
 慎吾はこれから駅へ向かって帰るらしく、相変わらずきっちり制服を着こんで道を歩いていた。

「あ、……流風先輩」

 いつも俺を呼んでいた時のトーンとはまるで違う声。慎吾はバッグを肩に掛け直して、俺に軽く会釈した。

「よう、今帰りか?」
「はい。生徒会ちょっと長引いて、その後部活顔出して。……先輩、は」
「……今、彼女駅まで送ったとこ」
「そう、ですか」

 慎吾は少しだけ困ったような表情をするだけで、俺がわざわざ“彼女”と言ったことに言及するつもりはないらしかった。
 本当は悔しいんじゃないのかよ。なんで、どうして、って、思ってんじゃねえのかよ。
 慎吾は何も口にしない。勝手に飲みこんで、勝手に消化して、勝手に乗り越えてしまう。そういう奴だ。

「先輩」

 慎吾が口を開く。
 慎吾の目は、いつだって真っ直ぐだ。(俺はそれが怖い)

「俺、葉山センパイのこと、好きでした」

 心が、ざわつく。
 今ここに葉山がいたら、なんて言うんだろう。どう、思うんだろう。それでも俺を選んでくれるんだろうか。
 俺はいつだって、自信がない。

「まっすぐで、頑張り屋で、すごくできるわけでもなくて、でもできないわけでもなくて、だからこそいつも一生懸命で、そういうところが可愛くて、俺、そんな葉山センパイが好きでした」

 慎吾は言う。はっきり言う。
 慎吾は、いつだって自分に自信を持っている。

「ヤマト先輩が俺に罰ゲーム言った時の流風先輩の顔、すごかったんですよ。世界の終わりみたいな表情でしたから、……そうなのかもな、とは、思ってたんですけど。先手打たれたんだな、って、その時は思いました」

 世界の終わり。そうだ、それが正しい。
 お前にだけは、先を行かれちゃいけない。そう思った。先を許したら、俺に勝ち目はないと。

「葉山センパイが流風先輩と付き合うって聞いて、諦めなきゃって思いました。悔しいけど、流風先輩が相手なら仕方ない、諦めなきゃ、諦めなきゃ、って。……でも、ダメです俺」

 予想はしていた。きっと慎吾ならこう言うだろうと。
 怖いけれど、そうやってぶつからなければ、俺たちは互いを打ち負かしたことになんてならないだろうから。

「俺、相手が流風先輩だったからって理由で諦めることだけはしたくない。俺は先輩を追っかけてここまできました。だから、ここまできたら追い越したい。俺たちがぶつかるあらゆるもので、俺が先輩と対等に張り合えるものなら、なんだって俺は勝ちたい。負けたくない!」

 慎吾だから、やっぱりそう言った。言わせたことに後悔もしている。
 俺はいつだって、自信がないんだ。だから慎吾がいつも、羨ましい。
 でも、ここで受けなきゃ男じゃないだろ。自信がなくても、自分の気持ちが本物かどうかくらい、わかる。

「――俺だって、お前に負けるわけにはいかない」

 慎吾の目を見て、言う。慎吾の目はいつだって真っ直ぐだ。俺は、そうじゃないかもしれない。分かっているからこれからは真っ直ぐであるべきなんだと、そう思う。
 誰にだって譲れないものがある。慎吾は、俺の絶対に譲れないものを脅かす。
 だから怖い。だから構えてしまう。でも、ゆずれない。どうしたって譲ってなんてやれない。
 “水城 流風”のカタチとして揃えてきた、勉強やスポーツのスキル。それだって俺は充分努力して掴んできたものだと思う。ただ、葉山は違うから。パーフェクトを形作るために必要としている存在じゃないから。
 俺が、俺の中身を保つために必要なひとだから。
 
「つーか、負けねぇし」



 負けられない。ゆずれない。負けたくない。ゆずりたくない。絶対に、負けない。ゆずらない。



「できるんなら奪ってみろよ」

 

2011.09.26(Mon) | パロディ | cm(0) | tb(0) |

かえりみち



「ん、まあ座って待ってて。準備してくるから」

 先生はそう言って一度部屋を出た。
 今は放課後、ここは進路指導室。あたしは数学の教科書と問題集、それからノートを抱えたまま、小さな部屋でため息をついた。
 ――どうしてこんな日に登校しちゃったんだろう。
 叡一が言うみたいに、えっと、扇谷貴久?みたいに、もっと計算して登校すること考えた方がいいのかもしれない。でもあたしは計算して登校しても試験が全然ダメだから出席日数だけじゃ進級が危うい。でも、だからってよりによって一番苦手な数学の小テストの日に登校してしまうなんて。その返却の日にも登校してしまうなんて。しかも補習って言われるなんて、本当にどうしようもない。数学できないのなんてあたしだけじゃない。他にも補習って言われた人は当然いる。けどみんな上手い理由で逃げ出したみたいで、あたしだけが断れずにここにいる。黙って帰るって選択肢、どうして見えなかったのかなあ。もう一度ため息をついて、あたしは扉から一番遠い席に腰掛けた。
 数学担当の水城 樹理先生は、戻ってくるなりこの部屋の扉を全開にすると、部屋の前に立てるタイプの黒板を置いた。ちらりと黒板の文字を見ると、『補習中』の三文字。

「あー、そっちじゃなくてドア側座って」
「あ、はい。すみません……」
「僕も何するつもりもないけどさ。何か言われても後々面倒でしょ」

 ……ああ、そういうことか。
 もう校舎全体に冷房が入っているこの時期、ドアを開け放せば空調は効きづらい。なんでだろうとちょっと思ったけど、一応そういうこと考えてくれたみたいだ。
 先生の腕にも教科書と問題集。それとシンプルなペンケース。言われた通りにドア側の席に移動すると、それじゃあ始めようか、と先生も奥の席に腰掛ける。
 マンツーマンでの補習授業が始まった。 




「全然できてないってわけじゃないと思うんだけどな。休んでる時も家で一応はやってるんだ?」
「あ、えっと、叡一、じゃなくて、あ、安瀬くんが教えてくれる範囲は、あの、少しだけ」
「安瀬って安瀬 叡一? 仲いいんだ」
「……幼なじみ、です」
「へえ、意外だな」
 
 よくそう言われる。それはあたしに友達がいなさそう、という意味なのか、叡一にあたしが似合いじゃないという意味なのか。両方のような気がする。
 叡一はよくあたしの面倒を見てくれる。ああいうのを、甲斐甲斐しい、って言うのかな。あたしは叡一の妹でもなければ彼女でもない。幼なじみといっても小さい頃からずっと一緒にいたってわけでもない。なのに叡一はあたしに本当によくしてくれる。それが少し申し訳なくて、でも断るのもあたしが寂しくて。あたしに割いてくれる時間、叡一ならもっともっと有効に使えるんじゃないかな、とはよく思う。人に教えることができるってことはその分叡一自身は勉強については理解しているってことだ。だから特別基礎からやり直す必要だってないだろうし。

「面倒見良さそうではあるけどね、安瀬くん」
「教えてもらってるのに満足にできなくて、申し訳ないです」
「あんま考えすぎない方がいいよ。ああいうのって自分が好きでやってるからさ」

 あたしのノートを覗き込みながら、先生がさらりとそう言う。
 それは、なんだか、少し複雑な台詞だ。先生は叡一じゃないのにどうしてそう言えるんだろう。
 少し睨むような視線に気づいたのか、樹理先生は緑色の瞳を見開いてから、笑った。それから、ごめんごめん、と言う。

「今のじゃよく思わないよね。ごめん。……僕にも似たようなのが身近にいたから分かるんだ」
「先生にも?」

 先生は大真面目に頷いた。

「ものすごくお節介な奴でね、僕が学校サボると」
「え、学校サボったりしたんですか? 全然イメージない」
「そう? 子供の頃から見た目で何だかんだ言われること多かったからね。聞き流すのも面倒でそのうち登校しなくなった。……君と同じ、かな? 違ったらごめん」

 同じです、と小さく返すと、ならよかった、と微笑みを返される。
 ……そっか、そういえば先生もハーフだった。中身はまんま日本人だけど、見た目はどう見たって外国の人。あたしと同じ、かな。もっと苦労したのかな。どうなんだろう、先生は受け流すの得意そう。あたしみたいに大真面目に受け止めたりしなかったのかも。

「その幼なじみの人、助けてくれたんですか?」

 話を戻すついでにその質問をすると、いや、と即答された。

「僕は余計な面倒起こしたくないからさらっと流したいのに、わざわざ庇ってくれるもんだから火が大きくなるんだよ。で、クラスメイトと顔合わせるのも面倒になってサボると血眼になって探してくれちゃうし、そのうち朝から僕のことつけて回るようになってさ。余計なことしなくていい、って言うと、樹理は方向音痴なんだから放っておいたらいつか北海道行っちゃう、って泣かれたよ。そりゃ確かによく道に迷うけど、そんな本気で心配される程じゃないと思ってたし、驚いた」
「……随分変わった人、なんですね」

 だよねえ、と先生はため息交じりに苦笑。でも、苦手とか嫌いとかって雰囲気ではない。

「最初は、自分をいい人に見せたいだけなのかも、とか勘ぐってたんだけどさ、ただ自分がそうしたくてやってんだろうなって段々わかってきた。僕は黎の中で、そうしてやらなきゃならない人間のポジションにいるんだろうなって」

 れい、というのはもしかしてその幼なじみの人の名前なんだろうか。
 先生の表情が優しくて、なんかくすぐったいような感じがする。
 叡一はどうなのかな。あたしはそんな風に割り切っては考えられないよ。叡一には叡一の考え方があるし、生活があるし、あたしが好きなように生きてる一方で、勉強でも生活でもなんでも、叡一を縛り付けちゃってるみたい。勉強だってもう少しできるようになればいい。そのためには学校でちゃんと授業受ければいいだけなんだけど、それもやっぱり、少し怖いから。もう少し、叡一に迷惑かけないでいられるようになりたいよ。……今はまだ、あたしなんかに構ってくれるの叡一だけだから、たくさん甘えちゃってるけど。
 余程あたしが思いつめた表情をしていたのか、先生は何も言わずしばらくあたしを見ていたけど、そのうち、「まあとにかく」と切り出した。

「教えるのって根気要るからさ。安瀬くんの負担は減らしてあげたいね」
「あ、……はい」
「紗央さん一人頑張ってくれると僕もだいぶ楽になることだし。……じゃ、仕切り直して次解いてみようか」

 この先生はそんなに怖くないかもしれない。
 そう思う。先生の声に頷いて、教科書に目を落とすと、背後に誰かの立つ気配があった。樹理先生には当然その主が分かってるらしい。

「いけねェなあ、先生? いくら相手が校内一の美人だからって密室に連れ込むなんて」
「職員室の先生方にも報告済だからまるで密になってないんだけどね。で、芹沢君どうしたの?」

 その名前にぎくっとして、肩が震える。恐る恐る振り向けばそこには本当に、その、あたしが今一番苦手な人がいた。
 
「一対一で補習なんざコイツも辛いだろ。参加してやる」
「偉そうに言う前に君も補習対象ってことを忘れないように」
「試験は俺の責任じゃねぇよ」

 芹沢が堂々とあたしの隣に座る。それから、教科書見せて、とあたしに言う。あたしは教科書ごと芹沢に押し付けた。

「別に今ここで取って食おうってんじゃねぇんだからそんなに気ィ張るなよ」
「芹沢君、それはここ出たら食います宣言してるようなもんだからすぐ撤回すべきだよ」
「あ? つーかこんだけの美人が手ぇつけられてないってことの方が奇跡だろ」
「論点ずれてる。現国の補習も必要なんじゃない?」
「コイツが出るんでなきゃぜってー出ねぇ」

 なんで、この人は、そんな自然に、怖いこと言うんだろう。
 教室よりも今は距離が近くて、この緊張全部バレてるんじゃないかと思うくらいで、怖い。
 あたしが何も言えずにカタカタ震えていると、先生が気づいてくれたらしく、芹沢からあたしの教科書を奪い取る。

「はい、紗央さんは今日の分おしまいってことで。問題集、できるところまで解いてみて。次答え合わせするから」
「は、はいっ」

 何度も何度もこくこく頷いて、あたしは鞄を抱えると脱兎の如く駆け出した。ドアが近くて本当によかった。
 後ろで芹沢が先生と言い争ってるような声が聞こえたけど、知らない。そんなのあたしは知らない。




 校舎を出て、校門まで走る。あまりにも怖くて革靴をちゃんと履けていなかったから途中で躓いて派手に転びそうになる。避けようと思ったけど慣性の法則?とかいうので無理な話で、前を歩いていた男子生徒に思いっきりぶつかって、二人して地面を転がった。びっくりして、申し訳なくて、謝りたくて顔を上げると、なんだかその相手はよく知った人のように思えた。

「あ、あの、」

 一応声を掛けてみると、相手がゆっくり振り向く。

「あ、紗央ちゃんか。後ろからだからわかんなかった」
「ご、っ、ごめん! 怪我なかった!?」
「平気。紗央ちゃんは大丈夫? 急いでたみたいだけど」

 大丈夫、と答えると叡一は安心したように笑ってくれた。
 安心したのはあたしの方だ。さっき本当にびっくりしたから、だから、安心して泣きそうになるのを堪えるのが精一杯だ。
 叡一は先に立ち上がると制服の埃を払って、あたしの手を引いて立ち上がらせてくれる。ついでに、転んだ拍子に飛んでいったあたしの革靴も拾ってくれた。

「珍しいね、すぐ下校しないなんて」

 叡一の肩を借りて靴を履く。数学の補習だったの、と答えると、補習なんて出なくても言ってくれたら教えるのに、と叡一は言ってくれる。
 それが嬉しくて、でも申し訳なくて、あたしはどうすればいいんだろう? 樹理先生はああ言ってたけど、でもあたしはそんな風に割り切ったりできそうにない。

「えっと、叡一は何してたの?」
「部活。ちょっと顔出しただけだよ」
「そうなんだ」
「走ってたけど、急いで帰らなくて平気? 紗央ちゃん」

 その質問には頷きを返しておいた。校舎から離れたかっただけで、急ぎの用事があったわけじゃない。
 
「そっか。じゃあ一緒に帰ろうか」
 
 叡一が先に歩き出す。あたしもその後を追う。
 もうちょっと、叡一に迷惑かけないでいられたらいいのに。構ってもらって当たり前なんて、あたし思ってないんだから。本当にいつも申し訳なくてありがたくて仕方ない。
 叡一の半袖のシャツの袖を後ろから引っ張って引き止める。何言おうか考えてなくて、つい引き止めてしまったから頭が慌ててるのがわかる。えーと、えーと。

「こ、これから、暇?」
「うん? ああ、何か教えて欲しいところあるの? いいよ」
「あのね、さっき先生に見てもらったから、だから、ちゃんと解けるか見ててもらってもいい?」
「勿論。一から教えなくて済む分、僕も楽だし」

 叡一の返事にほっとして、今度は隣を歩き始める。
 ちょっとずつ、でもちゃんと、叡一に心配かけないで済むようになるから。愛想尽かさないで付き合ってくれると嬉しい。そんなの絶対自分の口からじゃ言えないけど、ちゃんと、思ってるから。
 あんなに緊張してヒヤヒヤしてたのに、今はもう鼓動も穏やか。居心地がいい。叡一といると本当に楽だなあ、なんて思う。そうだ今日は冷蔵庫で冷やしてあるレアチーズケーキを出そう。そんなことを考えながら、二人で家路を辿った。



2010.06.26(Sat) | パロディ | cm(0) | tb(0) |

鏡の世界


「陸ちょん見っけー」

 流風が野島に突っかかっていたので、その流風にちょっかいを出し、即屋上へと授業をサボりにきた俺を瑶子がわざわざ追いかけてきた。
 旧校舎の屋上は一部が新校舎の陰になっていて日陰、一部は陽が当たるような構造になっている。どちらも十分広いスペースがあるため、夏は日陰に避難すりゃいいし冬は日当たりのいいところでのんびりすればいい。最高の場所だ。何よりも旧校舎は新校舎から多少離れてるモンだから人が来ない。なので俺や瑶子など、普段からがっつりサボりたい人間はよくこっちに集合している。
 今日は暑いが、それなりに風がある。日陰にいればかなり過ごしやすい。瑶子の白いセーラーがぱたぱたとはためく。

「瑶子またサボったんだ」
「私は陸ちょんと違って勉強できるっていうか自己補完可能なので出る必要を感じないんです!」
「俺もやる気を出したら宇宙一賢いんで出る必要を感じません」
「ちぃちゃんがノート全部取ってくれてるからって偉そうに!」
「恋人の協力も実力のうち、ってね。まあフラれ三昧の誰かさんに言うのは酷なことかもしれないけど?」
「うわっ、性格悪い! そんなだから教室で堂々兄弟喧嘩するんだっ」

 ――兄弟喧嘩、ね。
 確かにそうだ、傍から見りゃただの兄弟喧嘩。チャラい兄の俺が、クソ真面目な弟にちょっかい出してキレられて、そういうシーンだ。

「なあ瑶子、俺さあ」

 けど俺は、そう思いたくない。思われたくない。
 瑶子が、なあに? と首を傾げて俺を見る。

「流風と双子でいんの、ヤなんだよな」
「へ? 陸ちょんだけはいつも無意味に楽しそうじゃん」
「んー、双子ってーとゴヘイがあるかな。兄弟でいんのが嫌なの」

 俺はよく思うんだ、どうして流風は俺のことそんなに意識すんだろう。
 どうしてそんなに対抗意識燃やすんだろう。ただの競争ならいいけど、流風の俺への態度はなんだかいつも切羽詰ってる感じで、俺も息が詰まってしまいそうだ。

「俺は流風のこと好きなんだよな。確かに生まれた時からずっと一緒だからさ、差が出るの嫌で、勉強もスポーツも流風と同じくらいには頑張ってきた。そりゃあ成長すりゃ得意分野とかも出てくるし、それなりに勉強すれば流風よりいい点とれることだってあるわけだよ。けどそれって当然じゃん? 流風は俺なんかよりよっぽど努力してて、俺よりずっとできるくせに、俺の得意分野に関してはすげー落ち込んじゃうんだよな」

 流風は俺よりずっとできる奴だ。努力するのは大変だって知ってるし、それでも全部頑張れる奴。何回も挫折して、それでも前向いてるすげー奴だ。俺は流風のそういうところは尊敬してる。俺なんかじゃ絶対真似できねぇ、すごいことしてるんだって思う。

「流風はさ、弟って思われるの嫌なくせに、自分が一番そうやって意識してんだ。少しでも努力怠ったら自分が消えるような気がしてるんだよ」
「けど兄弟なのは事実なわけじゃない? なら陸ちょんはどうだったら納得するの?」

 日陰の中、壁に寄りかかる俺の隣に瑶子が腰掛ける。
 
「俺はさあ、流風とは親友でいたいんだよ。だって俺は流風のことすげえ好きだし。見た目もそっくりで、同じ血が流れてて、何でもいつでも分かり合えて、けど俺は俺、流風は流風だから、別の人間だから、考えることは違ってさ、それでいいんだし、だから親友がいい。兄とか弟とか、ほんの数時間で上下なんかつけられたくないし、対等でいたいんだ。ま、流風って根っからのMだから“お前の方が俺より下だ”って言われると燃えちゃうんだと思うんだけど」

 本当は、あの日ひとりで出かけて、俺だけが声をかけられて、そんなのは嫌だったんだ。流風と一緒の方がいい、なんて思っていた。けど流風が好むようなものとも思えないし、俺自身は興味があったからそのままこうしてモデルの仕事始めて、それで、やっと俺は俺の好きなようにやっていこうって思った。流風が俺を気にするみたいに、それまでは俺だって流風のこと気にしてきたわけで。ひとりで踏み出せたから俺には今ちぃがいてくれるし、これでいいと思ってる。
 だから、流風にも早いとこそういうきっかけができればいいのに。ちぃみたいないい女はいなくても、他に何か、流風にとって大事にできる出会いがあればいい。
 ……とまあ、俺がどんなに流風のこと考えて、流風のこと好きだからって、こーゆー俺は流風は好きでないみたいだからいいんだけどさ。

「ふうん、陸ちょんのが大人なんだ?」
「そこだけは兄さんなのかもなあ」
「考え方もオトナで、ちぃちゃんみたいな理解ある彼女がいて、それだけで十分流風きゅんにとって陸ちょんは自分より上だって意識せざるを得ないと思うけど。私の考えすぎ?」
「けど生まれついてのものじゃない。考え方も人間関係も、成長するし変わってくだろ。俺はもっと肩並べて流風と喋りたいよ」
「流風きゅんがちぃちゃんより可愛くて聡明な彼女連れてきたらどうする?」
「ちぃより可愛くて聡明な女なんているわけないだろ」

 断言してやると、私だって可愛くて聡明ですけどー? としょうもない台詞が返ってきた。残念なことに俺はちぃ以外はアウトオブなんとやらだ。

「遊びならいくらでも相手するけど?」
「……陸ちょんってさあ、断っ然シーマス君よりチャラいよね」
「何それ? 褒めてんの?」
「うん、心の底から褒めてる」

 比較対象がシーマスってのは引っかかるけど、シーマスより不真面目なのは確かだろうと思う。真面目に授業なんか出てらんないし、したいことしたいようにできればそれでいいかな、とか思ってるし。社会ナメてんだろ、と言われれば、その通りです、と答えるしかないわけだ。でも今はこれでいいんだ、いつか反省して考え方変わるかもしれない、変わらないかもしれない、全部そのターニングポイント待ちってことで。だって今の俺を受け入れてくれる奴がいるんだから、そのままでいいやって思うの当然じゃん。まあ確かに、流風の爪の垢煎じて飲んだ方がいいかなと思ったりもするけどさ。
 瑶子は立ち上がってスカートの埃をぱんぱん払って落とすと、扉へ向かった。

「まだ授業中でしょ、戻んの?」
「新校舎の屋上行く。暇だし放課後栄ちんとデートしたげよっかなと思って。多分あやつなら向こうで授業サボってるはず」
「いつも足蹴にしてんのにめっずらしー」
「盛大な惚気とブラコン話聞かされたらむしゃくしゃしたんですー」

 なんだ、ただのアッシーか。うわ今の死語だな。
 扉が閉まる。日陰に寝そべって目を閉じる。
 ブラコン、ねえ。だから俺は兄弟は嫌だって言ってんじゃん。
 



 甘い香りがして目を開く。いつもの香りだ。

「おはよう、陸君」
「んー……、おはよ、ちぃ。今何時?」
「昼休み」

 そうか。四限まるまるサボって、今昼休みってわけだな。
 体を起こしてちぃの隣に座る。こっちの屋上に二人でいるのなんて珍しいので、取りあえずちぃの体を引き寄せて額に軽いキスを贈る。
 甘い香りがする。これがちぃの香りで、俺はいつも安心する。

「また喧嘩してたね、流風君と」
「流風が突っかかってくるだけだって」
「気持ち、通じないものだね」
「肝心なところでは言葉が一番効くんだよ。双子同士でも」

 以心伝心なんて、いつでも完璧じゃなきゃ意味が無い。通じる時と通じない時があるんじゃ使えたもんじゃないし。双子はよく意思疎通ができるみたいに言われるけど、そんなの時と場合による。普段はやっぱり言葉が一番効くって俺も分かってるんだ。
 お前そんなんで辛くねぇの? って、それだけ言やいいってわかってる。それを言わないのは、言ったらきっと流風は怒るからだ。

「あ、そういや俺さっきまでここで瑶子と二人っきりだったんだけど」
「だから?」
「一応報告」
「そうなんだ」

 ちぃは賢い女だ。本当は嫌で仕方ないのに、俺にそんな素振り見せない。俺の前では一番いい女でいようとする。嫉妬するのはマイナスだと思ってる。俺にマイナスイメージを与えないように、完璧な女を演じているちぃが、俺はとても好きだ。その可愛さと賢さと狡さと汚さが、すげえ人間じみてて。金切り声を上げてぎゃあぎゃあ騒いで泣いたら、多分俺はその場所がどこだろうと衝動的に押し倒してしまいそうなくらいなのに、ちぃはそれをわかってない。わかってないちぃが、俺は好きだ。
 ……なんて、そんな歪んだこと考え始めたのはつい最近であって、それまでは普通にちぃの包容力に惹かれてただけなんだけどさ。俺が俺でいるのに、相川千鶴って女は必要なんだ。俺のいいとこ悪いとこ、全部最大に引き出してくれるんだよ。

「妬かないの?」
「だって陸君、絶対私のところに戻ってくるから。嫉妬するだけ無駄でしょう?」
「けど瑶子はちぃと同じくらい成績よくて、適度にサボるから俺といる時間も長いし、ちぃほどじゃなくてもそれなりに可愛いし、小柄だけどスタイルまあまあいいし、下ネタもガンガン乗ってくるしさ、俺あいつ嫌いじゃないよ」

 瑶子を褒める言葉を羅列させてみれば、カリ、とちぃの爪が床のコンクリートを小さく引っ掻いた。でも表情は変わらない。
 そういう面倒なところ、本当に好きだ。最高に美人で、賢くて、男なら一度はお相手願いたいと思うような女なのに、俺は大声で言って回りたいんだ、中身は普通に嫌な女なんだぞ、って。
 俺の前で必死で自分を覆い隠す彼女は愛おしいと思う。当然だろ? 俺の前で最高の自分であろうって頑張ってんだ。俺は何も隠すことなくそのままなのにさ。

「……冗談。ちぃ以上に可愛い声で俺の名前呼んでくれる女なんかいないよ」

 俺みたいに歪めとは言わないからさ、流風もこうやって心乱されるような誰かと出会えればいいのに。そしたら肩並べて、女ってほんっと面倒臭いよなー、とかバカみたいに笑いながら喋れんじゃね?
 ちぃの白くて小さい手の上に自分の手を乗せて軽く握ってやる。嬉しそうに、最高に可愛い顔ではにかむ彼女を見て、俺もにこりと笑顔を返した。



2010.06.24(Thu) | パロディ | cm(0) | tb(0) |

て の ひら



 あたしの部屋はいつも暗くてじめじめしている。でもそんな環境が好きで、あたしはいつもベッドの隅に座って、朝が終わり昼が終わり夜が終わるのを待ってる。
 友達、も、いないっていうか、別に要らないし、学校行かなくても、一人でも生きていけるかなあとか、思ったり。
 従妹の奈央にはそれじゃダメだよって言われるけど、部屋から、家から一歩踏み出すのはあたしにはすごく怖いことなのだ。
 ……でも、今日は学校、行かないと。
 置時計の針を見て時間を把握する。雨戸もカーテンも閉めきったこの部屋じゃ、朝か昼か夜かなんて時計なしじゃ判断できない。
 今は朝の七時だ。二週間ぶりに制服を着てみる。
 ……今のクラスには、理央も奈央もいるから、平気。大丈夫。
 そう念じてからじゃないと家なんかとても出られなかった。去年は、理央と叡一がいるから平気、って念じてた。本当は学校なんて行きたくないけど、でも、……お父さんとお母さんに心配かけるわけには、いかないし。
 お父さんは宝飾店の社長をしていて、お母さんはその付き添いで家にいないことが多い。家はそれなりに広いけど、お手伝いさんなんかはいない。家事なら自分ひとりでそれなりにできるから。従兄弟の理央と奈央のお父さんはあたしのお父さんの弟で、副社長。だからやっぱり家にいないことが多いみたい。あたしが学校に行くのはお父さんやお母さんが家にいる時。ちゃんと朝に家を出て、ちゃんと授業出て、帰ってくる。両親はあたしがどんな中学時代送ったかなんて知らないし、卒業式欠席したことだって知らないんだろう。
 奈央からもらった時間割を見ながら教科書を詰めて、朝ごはんは食べずに、軽く親に挨拶だけして家を出た。朝ごはんなんか食べたら、緊張で学校で吐いてしまう。家から学校へ向かう、一歩ずつ緊張が高まって、いつもいつも苦しい。何度やっても、慣れない。




 教室に着くと、同じクラスの照井さんと水城……双子みたいだしあたしには見分けつかない、とにかく照井さんと水城の片割れが仲良さそうに話していた。
 おはようっ、と明るく声をかけられたけど、あたしは小さい声で返すことしかできない。何をするにも手探りで、息苦しい。
 席について教科書をしまっていると扉から誰か入って来て、「失礼しまーす」と声をかけた。顔を上げてみれば、今は違うクラスの叡一があたしの席に近づきながらひらひらと手を振った。

「おはよ、紗央ちゃん。今日は来たんだ」
「来たくなかったけど」
「それでも来てくれて嬉しいよ。お昼一緒に食べようか?」
「いい。持ってきてないもの」
「なんで? お腹空かないの?」
「空かないの」

 食べたら何かの拍子で戻してしまう。だから学校では水分も極力取らないようにしている。
 不健康極まりないね、と叡一が言うから、うるさいっ、と反論しておいた。
 やっぱり知ってる人が近くにいると安心する。少しだけ気が楽になる。

「おいアンザイ、朝っぱらから人の女にちょっかい出すたぁいい度胸じゃねェか」

 やっと少し緊張が解れてきたのに、また新しくかかってきた声にびくりと反応してしまう。低い声。その人はあたしの隣の席の人。
 叡一はその人を見るなり爽やかな笑顔になった。

「うわあ、僕の苗字わざわざ倍の文字数で覚えてくれてるんだ。おはよう芹沢くん」

 芹沢拓海。 
 あたしの隣の席の人。なんだか怖い人。あたしが登校するといつも話しかけてくるけど、何を考えてるのかさっぱりわからないし、しまいには「俺の女」とか言い出すし、わからないっていうか怖い。中学の時みたいにまたいじめられるんじゃないだろうかと気が気じゃない。
 苗字を間違って覚えられている叡一だけど、嫌そうな顔はしない。作り笑顔にも見えるけど、どうなのかしら。

「紗央ちゃん、何かあったら大声で助け呼ぶんだよ」
「おいてめェ、俺を何だと思ってる」
「高貴なのは名前だけの野蛮なケダモノなんて僕も誰も思ってないって」

 そ、率直……!
 最後に叡一はにっこり笑って、あたしだけに「帰りは一緒に帰ろうか」と告げて手を振り、そのまま教室を出て行った。
 隣の席の芹沢はぎろりと叡一が出て行った後の扉を睨み、それからあたしを見て、席に着いた。
 ……居たたまれない。居心地が悪い。




 昼休みはいつも、旧校舎の地下に繋がる階段に座って、膝を抱えてぼんやりしているのが好き。
 暗くて冷たくて、自分の部屋の空気に似ている。
 冷たい壁に頭を預けて、そのままチャイムが鳴るのを待つ。遠くで騒がしい声が聞こえるけど、その音は自分とはまるで関係ないから、だから、外と遮断されてる感じがして、好き。
 朝からの緊張もあって少しうとうとしてきた頃、足音が近づいてくるのがわかった。――いつもはこんな場所、誰も来ないのに!

「……やっと見っけた」
「……せ、」

 せりざわ、だ。
 緊張がぐっと高まって、吐きそうになる。
 逃げようかと思ったけどすぐ立ち上がれそうになくて、膝を抱える力をぐっと強めた。

「……いつもすぐ逃げんだもんなァ、苦労したぜ、ったく」
 
 だれも探してくれなんて言ってないじゃない、ほっといてよ……!!

 芹沢は腕で額を拭うとあたしの隣に腰掛けた。
 隣に人のいる感覚にぞわっと背筋が寒くなる。
 嫌だ、いやだ、怖い。

「なんで逃げんだよ」
「………に、げてない」
「なんでアンザイはよくて俺はダメなんだよ」
「だ、だめ、とか、ないわよ、別に」
「あんだろ」
「ないっ」
「なら俺と付き合え、紗央」
「い、意味わかんないッ!!!」

 意味がわからない。
 そうやってふざけて、目のこととかなんだとか、好き勝手暴言吐いて遊びたいだけ。見え透いてる、そんなの応じられるわけない、だから学校なんか来たくなかったのに!!
 二年になって初めて登校した始業式の日に、すき、とか言われた。この人はそこからもう意味がわからない。何なの? もしかして学年みんなグルになってあたしのことからかってるの?

「……なんで。アンザイと付き合ってんの」
「ちがうっ」
「じゃあなんで」

 怖いから、怖いからよ。
 あんたに限らずみんな怖いんだから、学校来るだけで精一杯なんだから、あたしのこともう困らせないで……!
 ぎゅうっと頭を抱えて相手を見ないようにする。次は怒られるんじゃないか、怒鳴られるんじゃないか、蹴られるんじゃないか、殴られるんじゃないか、びくびくしていたけど相手は何もしてくる気配がない。けどあたしの前から立ち去る様子もなくて、もうどうしたらいいかわからない。
 恐る恐る視線を隣に向けてみると、芹沢はただじっと、あたしを見ているだけだった。それが怖くてまたぎゅっと目を瞑る。怖くて、どうしたらいいか混乱して、じわりと涙が滲んできた。頑張って学校来てるだけでいいじゃない、なんでそれじゃいけないの? なんでこんな目に遭わなきゃいけないの?
 誰かの手があたしの頬に触れたのはそんなことを鬱々と考えている時だった。誰か、って、芹沢しかいるはずないじゃない。
 
「っ」

 そのまま芹沢の手があたしの髪を梳く。
 さっき以上に強く目を瞑る。

「………くそっ」

 あたしの肩の震えが伝わったのか、なんなのか、芹沢は小さく舌打ちをして立ち上がり、階段を駆け上がった。
 全身の力が抜ける。力が抜けて、震えは大きくなった。
 何? なに、なんなの?

「………こわかった……っ」

 

 あたしがいくら怖い思いをしたって、誰も気にしない。
 だってここは旧校舎、誰も気づくわけないじゃない。




 五時間目が始まるチャイムが鳴るまでずっとあたしは膝を抱えて過ごした。





2010.06.02(Wed) | パロディ | cm(0) | tb(0) |

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